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前に、鳳洋子先生のことを書いたとき(http://porepore4989.blog68.fc2.com/blog-entry-38.html)に、先生が「長崎文化」という雑誌に寄稿されていたことを知り、これはぜひとも読んでみたいと思っていました。
が、この雑誌はどうやら市販はされていないらしく、古書店にも見当たらない。
で、長崎の図書館に行けばバックナンバーがあるかもしれないと思い、行きました。
市立長崎図書館に行くと、ハズレ。
けれど親切な図書館員のお姉さんに教えられ、元は「山のサンタマリア教会」があった場所に建てられたという県立長崎図書館へ。
そこで、短文ですが、先生の文章に接することが出来ました。
「バレエとともに」~「長崎文化」第16号:1965年11月発行・所収。
 「長崎へ帰ってきてよかった」~「長崎文化」第36号:1977年6月発行・所収)

それによると、洋子先生は幼い頃は、「気の弱い泣き虫」だったんだそうです。
凛とした後年のお姿からは想像出来ませんが。
小さい頃はあまりに泣き虫で、妹といっしょならお姉さんらしくしっかりするかもしれないと言われていた誰かさんと似ているかもしれませんね。

そうして活水女学院に進学したものの、勉強は嫌い。
が、体を動かす体育が好きで、将来は体育の先生になろうと考えていたそうです。
そこへ、石井漠バレエ公演との出逢い。
バレエという新舞踊を習いに通った当時15歳の洋子ちゃんは、ある日、学校に呼ばれて、きついお達し。
「こんな悪い成績をとる様だったら踊りをやめるか学校をやめるかどちらかになさい
すると、洋子ちゃんはごく自然に踊りの道を選んでしまいます。
学校の先生はお灸をすえるためにきつく叱っただけだったのでしょう。
それが、本当に学校をやめてしまうとは。
「学校の先生もまさか学校をやめるとは思っていなかったらしい…。」

かくて3年で学校を中退。15歳で単身上京し、石井漠門下の戸を叩く。
そこへ至るにも、また至ってからも、やはり相当なご両親の反対があったようです。
内弟子となってからは、肉体的にも過酷なレッスン。料理、掃除、電話の応対に至るまで、厳しい行儀作法の躾け……。
「若い私にはつらく家が恋しくなり床に入って声をしのばして泣いたものだった。」
両親のもとに帰ろうかと思うことも数度、そうしてついに実際に帰ってしまったことがあったんだそうです。
ところが、
「一度覚悟したことは最後までとおいかえされ」る。
東京から長崎までの遠い道のりをクタクタになって我が家へたどり着いた10代の娘を追い返したというご両親もスゴいと思います。
追い返した裏には、親としての悲痛な想いがおありだったでしょう。
そうして追い返され、東京に戻った洋子さんの横顔には、「気の弱い泣き虫だった」面影はなかったかもしれません。
「つらい悲しいことのくりかえしが私を強い人間にしたようです。」
と、洋子先生は当時を述懐されて書かれています。

これは想像に過ぎませんが、小さい頃は泣き虫だったという鳳洋子先生は、貴和子さんにご自分の姿を重ねていたところもあったのではないでしょうか。
だからこそ、貴和子さんを強く育てようと懸命だった。厳しかった。
成長した貴和子さんが上京しようとしたときに
「出ていくのなら帰ってくるな」
と叱咤したというその裏には、娘のためを思い、おそらくは涙をのんで娘を追い返した先生のご両親と同じような気持ちが流れていた気がします。
「一度覚悟したなら、最後までやりとげなさい」という。

雲1

それから、戦争。
そして、被爆。
――「原爆の長崎で希望をうしなった気持だった。」

先生が女子挺身隊として働いておられたという三菱兵器工場の被爆した当時の写真を、原爆資料館で見ることが出来ました。
あまりにひどい。
鉄骨が飴のようにグニャリと曲がっている。
この中で生き残られたのはやはり奇跡だと思います。
その後、原爆症に苦しめられたとしても。

おそらく戦争がようやく終わった頃でしょう、一時は結婚を考えられたそうです。
しかし、「私のやることはバレエではないかと」強く思い、断られた。
今だったら、結婚後もバレエをするという選択肢があるかもしれませんが、当時は考えられなかったのかもしれません。
先生は、学校かバレエかで、バレエを選び、結婚かバレエかで、再びバレエを選ばれたんですね。

そうしてバレエへの道を強く心に誓ったものの、被爆後の長崎の焼け野原では、レッスンする場所さえない。
あせり、いらだつ日々。
が、1949年、長崎に来ていた石井カンナさんと再会し研究所を開設。レッスンを始め、1951年、ひとりとなって改めて研究所を開設。
そうして第一回目の発表会を三菱会館(当時)で行ったことは、前回書いた通りです。
そのときのことを先生はこう振り返っています。
「長崎にどのような反響があるか心配であったが当日の長蛇の列をみてうれし泣きに泣いた。
長崎の皆様ありがとうございます。」


研究所の開設から16年たった1965年に書かれたこの手記は、次の文章で結ばれています。
(前略)バレエの道はけはしい、私は負けない、努力と前進あるのみである。ながいながい経験をいかし長崎の若い人たち、そして私のかわいい生徒たちのために体のつづくかぎり全力で指導する。
生徒のなかから立派なバレリーナが生まれることを期待し、私はバレエの道一筋に生き抜く覚悟である。」


その覚悟には、「一度覚悟したなら、最後までやりとげなさい」と叱咤して若き日の先生を追い返したご両親の想いが、もしかしたら流れているのかもしれません。

この手記が書かれた4年後の1969年。
先生は、小さな原田貴和子・知世姉妹と出会うことになります。




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