えーと、いわゆる、なんていうか、O3(オースリー)な日々。

原田知世さん(=O3《オースリー》)にまつわる事どもを、 ミーハーなファンが書き散らかしています。

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「刑務所の原田知世[Tomoyo Harada and Itabashi Redemption]」

「刑務所の原田知世」。 

──だなんて、あ、いえ、知世さんが何かやらかして刑務所送りになっちまったとか、 
そういうわけじゃあ、全然ありません。 
刺激的なタイトルを狙ったとかそういうわけでもなく(いえ、スイマセン、ちょっと狙いました)、
ただ、スティーヴン・キングの小説をパクってみたのでした。 

その小説のタイトルが、「刑務所のリタ・ヘイワース」。 
リタ・ヘイワースは、1940年代のハリウッドを代表する往年のセクシー女優です。 
その大スターが、なぜ刑務所なんかと関係があるのか? 
……というのは、物語を読んでいくうちに明らかになります。

雲2 

この「刑務所のリタ・ヘイワース」(1)という日本語タイトルの原題が、
“Rita Hayworth and Shawshank Redemption”。 
直訳すると「リタ・ヘイワースとショーシャンクの贖(あがな)い」ということに
なるでしょうか。 
ていうか、映画化された「ショーシャンクの空に」というタイトルの方が
わかりやすいかもしれませんね。 
映画「ショーシャンクの空に」(1994年公開)をご存知の方は多いかもしれません。
(※フランク・ダラボン監督の話では、「リタ・ヘイワース」と付いた小説のタイトルだと、
リタ・ヘイワースの伝記映画だと思ってオーディションに来る人がいたりするので、
映画ではそちらを削って、「The Sfowshank Redemption」だけにしたのだそうです。)

※以下、ネタばれとなりますので、未読・未視聴の方はご注意下さい。

B016PLAE6C09.jpg 
「ショーシャンクの空に[The Shawshank Redempyion]」(1994年公開)
監督:フランク・ダラボン、出演:ティム・ロビンス、モーガン・フリーマンほか

海外でも日本でも舞台化されています。
2014年に、佐々木蔵之介さん國村隼さんのダブル主演で舞台化されていますが、
おれは2013年に上演された舞台を観て感銘を受けました。

shawshank.jpg 
「ショーシャンクの空に」(2013年上演)
演出:河原雅彦、脚本:喜安浩平、出演:成河(ソンハ)、益岡徹ほか

映画ではティム・ロビンス、舞台では成河(ソンハ)さんがが演じた主人公、
銀行家であったアンディ・デュフレーンは、
妻を殺したという無実の罪のために終身刑となり、 
劣悪なショーシャンク刑務所に服役します。
物語の語り手である、同じ服役囚のレッド(映画=モーガン・フリーマン、舞台=益岡徹)は
そんなアンディを、おかしな奴だといいます。
おおよそ囚人らしくない。
いじけていない。ひねくれていない。絶望しているように見えない。
まるで普通の一般人──いえ、むしろ一般人よりも前向きな生活態度であるということが、
つまり塀の中の人間らしくない。
終身刑を受けているとは思えない、おかしな奴だというわけです。

そのアンディが、自分の囚人部屋に貼って飾った大型ポスターが、リタ・ヘイワースでした。
アンディが入所した1947年、当時のセクシー女優といえばリタ・ヘイワース。
その後、1950年代には、マリリン・モンロー。
60年代に入ると、ラクエル・ウェルチ。
……と、アンディの長い服役のあいだ、
その年代を代表するセクシー女優のピンナップ・ポスターが代替わりして、
彼の部屋の壁を飾ることになります。

2013年の舞台版では、
高橋由美子(as リタ)、新良エツ子(as マリリン)、宇野まり絵(as ラクエル)の
セクシー女優陣が、それぞれ3人のピンナップ・ガールズに扮して、ポスターから飛び出し、
語って、歌って、男ばかりの舞台に色を添えて盛り上げていました。

アンディがセクシーな彼女たちのポスターを貼り続けたのは……、
いや、彼の趣味をどうこう言うつもりはありません。
……いえ、実はそこに秘密があって、
それが「刑務所のリタ・ヘイワース」というタイトルにつながっていたのでした。

雲2 雲1


最初に原作の本を読んだとき、おれは、この物語とぜんぜん違う別の物語を思い出しました。
それは、ロベールというフランス人のエピソードです。

彼は、第二次大戦中、レジスタンスとして活躍しましたが、捕まって、
ドイツの捕虜収容所へ送られました。
そこでは、みんな疲弊しきって「丸太のように」寝転がり、
いくらか体力のある者は愚痴と不平を言い、運命を呪っていた……。
絶望の中で、精神的にも倫理的にも荒れていました。

そんな中、ロベールはひとり、おかしな真似を始めます。
まるでそこにひとりのレディがいるかのように、見えない彼女に手を貸し、
薄汚れたベッドに席をしつらえ、彼女を座らせる振りをする。
大真面目な顔で、彼女にささやき、彼女の手をとり接吻する……振りをする。
そして彼は、囚房の男たちに告げます。
──ここにご婦人がおられるのが見えないのか?
彼女の前で、メソメソしたり女々しい泣き言など、男として恥ずかしい真似はするな。
毅然として男らしく振る舞え。
彼女の前でおならをするような下品な不謹慎をやらかす奴は、俺がぶっ飛ばす。

彼が冗談を言ってるのか、気が狂ってるのかといぶかっていた面々も、
腕っぷしが強くリーダーシップのあるロベールに口を出せませんでした。

かくて、男たちの奇妙な生活が始まります。
ある者は、彼女の気をひくためにお洒落なことを言い、
ある者は、彼女をなごませようと、上品なジョークを披露する。
ある者は、彼女が着替えるのを手伝うのだと言って、毛布で囲って壁を作ってあげる。
ある者は、収容所の周りの花を摘んで、花束にして彼女に届ける。
みんな、収容所の中に淑女などいるわけがなく、虚構であることはわかっていました。
しかし、その空想をみんなで共有することによって、
自分の中に残っている男らしさ、人間らしさを奮い立たせ、
この状況下で押しつぶされ、自暴自棄に陥りそうな精神を支え合ったのでした。

結果、ここの囚房ブロックは士気が上がり、
今までどうでもいいと、なりふりかまわずだった髪も身なりも、こざっぱりと清潔になり、
誰もがいきいきとし始めたのです。

そんな彼らの変化に、収容所長が気づきます。
そして鼻眼鏡の奥で微笑しながら、ロベールたちに告げます。
──明日の朝、君たちを元気にするという多大な貢献をしている、見えないその女を
引き渡したまえ。
彼女を慰安所送りにして、ドイツ兵たちの嬲りものにするというのです。

一同は愕然とします。
しかし、女性といっても、しょせん実体のない空想の産物です。
命令に服従して彼女を引き渡すというのが、分別ある現実的な処世というものでしょう。
われわれの目的は、生き延びてここから脱出することであり、
虚構や神話のためにわれわれ自身が犠牲を被るというのは馬鹿げている──
というのが、大多数の意見でした。

ところがその朝、ロベールは、彼女を引き渡さないと答えるのです。
どんなに強力な軍隊でも、架空の存在を引っぱり出すことは不可能です。
それが偽物だろうと、本物だろうと、その空想と彼の自尊心は、
何者も奪うことが出来なかったのでした。
鼻眼鏡の収容所長は怒りにふるえ、
ロベールを過酷な拷問と、死にも等しい独房へと引っ立てていきます。
誰もが、彼の姿を再び見ることはないと確信します……。

──これは、フィクション。
おれは、このエピソードを最初、学生時代のときに
コリン・ウィルソンの著作で紹介されていたのを読んで知りました(2)
このエピソードには、
芸術やエンターテインメントが持つ虚構ということの秘密が語られている気がして、
何か引っかかり、本に記載されていたロマン・ゲイリ「天国の根」という本を探しましたが、
なかなかみつかりません。
で、ずっと後になって、結局これが「自由の大地」として映画化されていること、
そして著者は“ロマン・ゲイリ”ではなく、“ロオマン・ギャリィ”として、
映画と同じ「自由の大地」(3)というタイトルで翻訳されていることを知り、
やっと手に入れます。
とはいうものの、巻末の「解説」で、藤原英司さんが、
「この作品を最後まで読み通すのは容易ではない」
と書かれているのを読んで、「その通り!」と意を深くし、
いまだに中途で挫折し完読しないまま、そのままになっているという情けないことに
なっているのでありました(Sigh ータメイキー)。

the-roots-of-heaven-1958.jpg 
「自由の大地[The Roots of Heaven]」(1958年公開)
監督:ジョン・ヒューストン、出演:エロール・フリン、ジュリエット・グレコほか

さてそれで、このエピソードを知った学生当時、おれは想像したわけです。
もしも自分がこの収容所にいたとしたら、きっと原田知世という少女を空想しただろうと。
そしてもしも当時、原田知世という存在をロベールたちが知っていたとしたなら、
彼らが収容所の中で空想した女性はきっと原田知世という少女のかたちをしていただろうと。

おれは当時、板橋の四畳半のアパートの壁に、絵のレプリカやらを貼っていたのですが、
そのひとつが、知世さん(当時は知世ちゃんと呼んでいました)のポスターでした。
その前で、おならや、その他の下品な不謹慎をやらかしましたが、
メソメソ愚痴を言ったり、人間として間違ったことはしまい、
──ポスターの中の彼女が眉根をしかめて悲しむようなことはしまい。というのが、
当時のおれの生活信条だったように思います。

もっとも、「ポスターを踏め。踏まないと、拷問にかけるぞ」と誰かから脅されるような
キリシタンの「踏み絵」的な状況に、もしも、
もしもなったとしたら、ロベールのような勇気の持ち合わせのないおれは、
あっけなく心折れて転んでしまった──ポスターを踏んでしまったかもしれません。

しかしポスターの中の少女が、おれの中の枯渇しそうな男らしさ、人間らしさを奮い立たせ、
鼓舞してくれたことは確かでした。
たとえば当時、雨が雪に変わる極寒の真夜中、ずっと道路に立っているなどというバイトも、
彼女の歌を口ずさめば、何の苦もないことでした。

雲1 

そんなある日、おれはある夢をみました。
何か坂道を登っている途中に、瀟洒な家があり、そこで人々がワルツか何かを踊っていて、
誰かと踊っているその一人が知世さんだったのです。
映画「早春物語」にちょっと似たようなシーンがありましたが、
映画が公開される以前のことでした。
それを見たおれは、なぜか
「知世ちゃんじゃない、ほんとうの知世ちゃんじゃない」
と叫んでいたのです。

いやあ、夢というのは訳のわからないものです。
ただ、当時、おれは夢から警告を受けたような気がしました。

当時のおれの場合は、未発達な、擬似的な恋愛感情のようなものでしたが、
恋愛って、幻想を含む場合がありますよね。
相手のことを考える──といいながら、自分の幻想を相手に押しつけるだけ。
それが時として利己的となって、相手のことを何も考えないことになったりする。
自分の欲求をただぶつけるだけになったりする。

ロベールたちは空想と知りながら、そこに自分の中の女性性を投影して
それぞれに女性像(アニマ)を作り上げました。
おれは、知世さんにアニマを投影していたのだと思います。
しかし、自分の理想像を押しつけるだけで、現実の彼女を見ていなかった。

当時の「時の魔法使い」というエッセイ集は、おそらく温水ゆかりさんが執筆したもので、
おそらく知世さんが語った話の聞き書きだと思われます。
文章も魅力でしたが、その中に元の話の、語り口の素直な感受性が垣間見えて、
それは、映画の中の彼女の、演技というよりは、彼女の素の部分が垣間見えるその本質と
重なるように思われました。
当時、それは普遍的な少女像に通ずるようにも思われたのですが、
これはやはり、ミーハーなファンが自分勝手に思い込んだ虚像を多分に含んでいたでしょう。

自分で虚像を作り上げ、にも関わらず、「ほんとうの彼女ではない」などと夢の中で口走る。
勝手なもんです。
言われる方はいい迷惑です。
夢は、たぶんおれの本音を映していたのだと思います。
が、それは、おれ自身の愚かしさを教えてくれるものでした。

雲2 

それから何年か経って、コンサートへ行ったときでした。
MCで、知世さんはこんなようなことを言っていたのでした。

「来年は、もっとステキになってみんなに会いたい。
だから、みんなもステキになっていて下さい」

ちょっとショックでした。
彼女が、ただ可愛いだけのお人形さん的アイドルではないだろうということは、
感じていました。
しかしおれは、彼女の中に普遍的な少女性を見いだしたように思い、それにしがみついていた。
けれども、彼女は、若芽が成長してのびのびと枝葉を伸ばしていくように、
いろいろな葛藤を抱えながらもそれを隠すことなく、
Next Door──新たな世界への扉を開いて、挑戦しようとしていた。
そしてファンとともに成長したいと、呼びかけてきたのです。
少女から女性への階段を昇っていくその足取りは軽々と見えて、まぶしく、
おれは「やられたー」と思い、二歩も三歩も先へ成長していく彼女から
取り残されたように感じたのでした。

そのときから、おれの中で「知世ちゃん」は、敬意を込めた「知世さん」になりました。
部屋の中のポスターは相変わらずでした。
が、その微笑みは、単に可愛らしいというだけでなく、
「頑張ってますか?」というエールを、さわやかにささやき続けてくれているように
思われたのでした。

去年、知世さんデビュー35周年ですから、その頃から、もう数十年。
「不惑」の歳をすでに通り越しながらも、惑ってばかり。
人生五里霧中の日々です。
あの頃から、どれだけ成長しているかと問われれば、
目をそらして遠くを見つめてしまう自分がいます。

雲・輪 

さて、ところで、「ショーシャンク」のアンディは、刑務所の中で、
看守から、同じ囚人たちから、理不尽な暴力と迫害を受けます。
が、めげることなく、自分の思う生活を貫き続け、
元銀行家であった彼は、収容所長をはじめとする看守職員らの節税についてアドバイスをし、
やがては所長の財務管理をすることで、独自な地位を得ます。
そうして、不可能と思われた図書室の設置をするなど、生活の改善を一歩一歩はかっていく。

やがて彼の部屋のポスターは、リタ・ヘイワースからマリリン・モンロー、
ラクエル・ウェルチへと変わり──つまり、数十年の歳月を経たとき、
彼の無実を証明する情報が飛び込んできます。
しかし、収容所長は取り合わない。
というのも、彼がアンディに託した財務管理の中に裏帳簿があって、
アンディが無罪釈放となったときに、それがバレてしまうことを怖れたのです。
そしてついには、アンディを殺して口を封じようと追いつめる。

ところが、アンディの姿は収容所から消えてしまいます。
どこをどう探しても見つからない。
彼の部屋に残されていた、1枚の、今はラクエル・ウェルチであるポスター。
そのポスターを調べた収容所長は、アンディの秘密を見つけます。
ポスターの裏にあったのは、壁に穿たれた抜け穴でした。

無実の罪で服役したアンディは、リタ・ヘイワースの頃からその大型ポスターの
裏の壁に、小さな金具で穴を穿ち、その破片をポケットに入れて外へ捨てるという
作業を、こつこつと、こつこつと、繰り返していたのです。
そうして数十年、「雨だれ、石を穿つ」のことわざ通り、ついに抜け穴を完成させ、
脱走に成功したのでした。

2013年版舞台の「ショーシャンクの空に」のコピーは、
原作の小説の語り手であるレッドの言葉(舞台でも語られました)から
引用したものでした。

──「希望とはいいものだ、
たぶんなによりもいいものだ……」

そう。リタ・ヘイワースの裏には、希望が隠されていたのです。
その希望は、同じ服役囚のレッドにも新たな人生をもたらすことになります。

雲・ハート 

ショーシャンクではなく、板橋のアパートに貼ってあった原田知世さんのポスターは、
今はアルバムの中にしまってあります。
そこを引っ越してから、今もおれは板橋に住んでいます。
その部屋にポスターはありません。
が、胸の中には1枚のポスターが貼ってあります。
最初に貼っていたポスターの写真は、10代だった知世さんのものでしたが、
今は知世さんも五十路で、あいかわらずの微笑みは変わりません。

知世さんデビューから35年。今年で36年目。
いろいろなことがありました。
これからもまだいろいろなことがあるでしょう。
けれどやっぱり、おれは知世さんのポスターを、
これからも胸の中に貼り続けていきたいと思っています。

そのポスターの裏には、希望がある。
その希望的観測は、どうやら捨てられそうにありません。







(1)スティーヴン・キング、浅倉久志訳「刑務所のリタ・ヘイワース」〜「ゴールデン・ボーイ──恐怖の四季・春夏編」所収、新潮文庫
(2)コリン・ウィルソン、由良君美・四方田剛己訳「至高体験──自己実現のための心理学」河出書房新社
(3)ロオマン・ギャリィ、岡田真吉・澁澤龍彦訳「自由の大地」〜「世界動物文学全集・9」講談社























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  1. 2018/01/15(月) 06:44:00|
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