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■らっきょう

映画の中で、紙屋悦子(原田知世)たち家族がらっきょうを食べるシーンがありました。
らっきょうを食べたら、空襲にあっても爆弾に当たらないというのです。
「当たらない」というなら大根でもよさそうなものですが(大根は腹に当たらない)、ここでは、らっきょうが食卓にのぼります。

黒木和雄監督「父と暮らせば」の原作者・井上ひさしさんに「東京セブンローズ」という作品があります。
昭和20~21年当時の暮らしを記した一庶民の日記というかたちの小説で、この中にやはり「らっきょう」の話題が出てきます。
これによると、噂が広まり出したのは、昭和20年(1945年)3月10日東京大空襲の被害地から。
一説には、らっきょうは匂いがくさいので、焼夷弾もこれを避けるというのだそうです。
また一説には、らっきょうは姿かたちが焼夷弾とよく似ているため、これをガリガリかじる人間を焼夷弾の方が怖れ、避けて落ちる。
さらにまた一説、当時ラジオでよく流された軍の放送に関係するのだとか。
爆弾や焼夷弾を落としに日本へやってくる敵機は当時の人々の大きな関心事で、だからラジオや新聞で、その動向が台風情報並みに伝えられたようです。
たとえば「敵機は○○岬の西南方向から侵入し」「東方海上に脱去(だっきょ)せり」という具合。
「脱去」という言葉が一般的に使われていた。
そこで、義姉のふさ(本上まなみ)が近所の山名さんの奥さんから聞いてきた通り(山名さんて誰?)、
「その『脱去せり』の『脱去』が『らっきょ』に似ちょって、(だから)ラッキョウを食べたらよかっち」
というわけです。
つまり、「敵機は帝都上空を旋回せり」などといつまでも言われるのはたまらない、どんどん日本の上空から脱去して行って欲しい、ダッキョせよ、ということで、盛んにラッキョを食べるんですね。
(らっきょうの配給にも限りがあって、それほど多くは食べられなかったようですが。)
「東京セブンローズ」は、破天荒なストーリー。
が、荒唐無稽な「虚」を作り上げるために細部のリアルなディティール──「実」を積み上げていくという、いかにも井上ひさし文学らしい虚実皮膜の作品であり、そのために膨大な資料が駆使されています。
上記3つの説は、実際に当時東京の庶民に伝わっていた噂だといっていいようです。

そうした都市伝説のような話は、当時いろいろと飛び交っていたようで、たとえば、玉ねぎで頭をこすると爆弾に当たらないという噂もあったとか。
たとえばまた、作家・高見順の当時の日記によれば、金魚を拝めば爆弾に当たらないという迷信が信じられていた。が、生きた金魚が手近にないため、瀬戸物の金魚が実際に高額で売られていたそうです。
らっきょうの噂は、その中でもポピュラーなもの。
東京憲兵隊に流言飛語として報告された中に、こんな一文があるそうです(「銃後~流言・投書の『太平洋戦争』~」川島高峰著、読売新聞社より)。

「赤飯ニ『ラッキョウ』ヲ食ヘタラ爆弾ニ当タラナイ其ノ話ヲキイテカラ三日以内ニ喰ワナケレハ爆弾ニ当ツテ死ンテシマフ」

三日以内に食べろとは、何だか幼稚な「不幸の手紙」みたいなインチキ臭さですが、こうした噂がかたちを変えながら口から口へと伝わり、日本各地に広まっていったのでしょう。
劇中、らっきょうが紙屋家の食卓に供されたのは昭和20年4月8日。
東京大空襲から約1ヶ月後にはもう、悦ちゃんたちの住む九州にも噂が届いていたということになります。

「脱去」。「らっきょう」。──つまりは駄洒落ですね。
が、駄洒落を侮るなかれ。
若き日のユーミン、松任谷由実さんも美大受験のお弁当には「勝つ」にひっかけてカツを食べたと聞いたことがあります。
今でも、たとえばリトルリーグの野球少年のお母さん連が、大会の前日の夕食にはステーキ(素敵)やカツ(勝つ)を奮発するというはなしを耳にしたりします。
まあ、正月や結婚式のお祝いの席で「よろコブ」からと昆布巻きを出したり、「めでタイ」からと鯛を供するのと同じですね。
しかしこうした縁起かつぎの風習には、単に洒落(シャレ)で片付けられない人々の切実な願いが込められていたりするのでしょう。
正月に黒豆を煮るのも、「しわが寄るまで忠実(まめ=達者、息災の意味)に」という駄洒落。
しかしその裏にはもちろん、今年一年なんとか健康に過ごさせて下さい、しわが寄る老齢まで長生きが出来るような幸運に少しでもあやかりたい、というような切なる願いがあるわけです。
理由も洒落もわからない玉ねぎや金魚に比べれば、多少とも説得力があるというものです。
らっきょう一粒にしても、その駄洒落のかげに、いつ爆弾に当たってもおかしくなかった当時、何とか命を守りたい、家族を救ってほしいという、とりわけ必死な、命がけの想いがあったのでしょう。

雲2


■赤飯

「赤飯ニ『ラッキョウ』ヲ食ヘタラ爆弾ニ当タラナイ」
と噂されていた通り、紙屋家の食卓にも、らっきょうとともに赤飯が並べられていました。
どうして赤飯を食べると、当たらないのか?
そのいわれについては、近所の山名さんの奥さんは何も言っていなかったとふさは言い(山名さんて誰?)、映画ではうやむやにされます。
やはり何かの洒落が隠されているのでしょうか?
どうでもいいことですが、ちょっと考えてみました。

仮説1) 敵方が惜敗(せきはい)をなめるようにということで、赤飯(せきはん)を食べる。
……いやしかし、味方が、セキハイ(ン)を舐めちゃどうしようもないですね。

仮説2) 「あぢきなし(あづきなし)」という古語が、道にはずれる、不当であるという意味であることから、弾道がはずれる、当たらないにひっかけて、「あずきめし(小豆めし)」つまり赤飯を食べる。

仮説3) 敵であるアメリカ──米国に赤っ恥をかかせるということで、「米」を赤くする。
そこで、赤い米──赤飯を食べる。

……とまあ、う~~ん、どの仮説もかなり苦しいっス。
で、ちょっと調べてみると、どうやら赤飯にはもともと爆弾を遠ざけるチカラがあったようです。

そもそも、米の野生種の多くは赤い米。古代、大陸から日本に伝わってきた米のルーツも赤い米だったといわれます。
赤い色素(いわゆるカテキン)を含んだモチ米の一種で、最近までごく一部の地域で栽培されていたそうです。
邪馬台国や大和朝廷へ献上する米にも赤いお米が使われていた。
一種の聖性があると考えられていたのでしょう。
ところが時代とともにウルチ米が普及し、精米技術の進歩とともに「米といえば白米」が普通になっていく。
それでも、祭りごとの席などでは、かつての赤い米が使われ、その名残りとして赤飯が供されたといいます。
また、古来、中国や日本では(またギリシアやローマでも)、「赤」い色は邪をはらうといわれてきました。
暴れるキョンシーは、赤い文字のお札を貼られておとなしくなる。
中国では現在でも、赤い札を魔除けとして玄関に貼っている所があるそうです。
一説には、日本の神社の鳥居も、清浄な地から邪を遠ざけるために赤く塗られているのだとか。
だるまさんが赤く塗られるようになったのも、赤い牛のおもちゃ「赤ベコ」が作られるようになったのも、江戸時代、流行していた天然痘をはらうためでした。
(天然痘の疱瘡神は特に赤い色がお気に入りで、そのために赤い色のものを奉じてご機嫌を鎮めたそうです。あるいは、赤い色を嫌ったという説もあり。)
そんなわけで、邪をはらうために赤飯が食べられた。
(余談ですが、前述の金魚が爆弾を避けるという説は、金魚が赤いところからきたのでしょうか?)
もっとも、民俗学者・柳田國男は、小豆の呪的ともいえるチカラは、必ずしもその赤い色が理由とは限らないのではないかと書いています(「小豆の話」~「柳田國男全集17」(ちくま文庫)所収)。
しかしながら小豆はそうしたチカラを持っていたことは確かなわけです。

人情噺で知られる落語「子別れ」の前段は、別名「強飯(こわめし)の女郎買い」とも言われます。
主人公熊五郎が、ご隠居のお弔いで山谷のお寺に行き、「強飯」つまり赤飯を土産にもらって帰る途中、「精進落としだ」などといって吉原へくり出そうとするところから、この名が付けられています。
高齢で亡くなったご隠居は天寿をまっとうしたから赤飯が供されたと、今は現代的な説明もされていますが、昔の慣習ではもともと、赤飯は、お葬式などの忌日に食べられていた。
それが、「邪をはらう」という意味はそのままに、おめでたい祝日にも食べられるようになったという経緯もあるんだそうです。

つまり、赤飯を食べると魔を除ける。
爆弾や焼夷弾さえ除けられるというわけです。

「じゃっどん」
と、ふさは言います。
「赤飯は赤飯らしく食べたかです。ラッキョウもラッキョウらしく食べたかです。爆弾に当たらんち思うて、赤飯やラッキョウを食べたくなかですが」
夫婦互いに相手を想うがゆえの言い争いの末、「日本は負けてもいい」とまで口走り、こぼすのがこの台詞です。
庶民の──銃後に生きる女性たちの、これはポロリとこぼれた本音なのでしょう。
たとえ日本が負けたとしても、愛する家族が無事であってほしい。死の恐怖と不安のない世の中になってほしい。
赤飯は、赤飯らしく。
らっきょうは、らっきょうらしく。
これはつまり、人間は人間らしく、ということでもあるかもしれません。

雲・輪


■おはぎ

さて、赤飯と同じく小豆を材料とする食べものに、おはぎがあります。
こちらも映画で使われ、物語の上で重要な役割りを果たしていました。

ここで、重箱の中のおはぎをつついて、……ではなく、重箱の隅をつついて、ちょいとイチャモンを。
おはぎはつまり、「お萩」。もともとは単に「萩」と呼ばれていたんだそうですね。
対して、ぼたもちは、「ぼたん(牡丹)もち」から来たのだとか。
子どもの頃おれは、ぼたもちをモグモゴやりながら、「おはぎは、萩の咲く秋のお彼岸。ぼたもちは、牡丹の咲く春のお彼岸に食べるもの」と家人から教わった記憶があります。
「おはぎ」も「ぼたもち」も同じ食べものだけど、季節によって呼び方が違うというのです。
悦ちゃんが明石(松岡俊介)と永与(永瀬正敏)をおはぎのご馳走で迎えたのが、3月31日。
つまり、お彼岸を過ぎたとはいえ、春なので、ここは「ぼたもち」と呼んだ方がいいのではないでしょうか。
まあ、地方によって異説も多々あるようで、悦ちゃんの住む鹿児島ではどうなのかわかりません。また、近年では一年中「おはぎ」と呼ぶことも増えたそうなので、わざわざ重箱の隅をつつくこともないのですが。
──いやしかし、まあ、悦ちゃんがこしらえるとしたら、やっぱり「おはぎ」の方が通りがいいかもしれませんね。
「ぼたもち」というと、小豆あんがボタボタくっついた素朴な塊(かたまり)。ガッツリほおばりたくなるイメージ。
「おはぎ」というと、上品にちんまりとこしらえられた和菓子。ちょいとつまみたくなるイメージ。
そんなイメージをついつい勝手に抱いてしまうのは、おれだけでしょうか?
紙屋ふさ夫人&悦子嬢両婦人の白魚の指で握ってもらうとしたら、やはり「ぼたもち」よりはスマートな「おはぎ」の方がピッタリのような気もする心持ちではあります。

黒木和雄監督「TOMORROW/明日」でも、おはぎが登場していました。
こちらもやはり戦時中、出産を間近に控えた娘(桃井かおり)の滋養のためにと、母親(馬淵晴子)がお手玉を切り開いて中の小豆を取り出し、苦労してこしらえていました。
おれが子どもの頃、祖母が妹のために縫ったお手玉の中には、近所の小川の岸にはえていたじゅず玉を詰めていたものですが、小豆を詰める作り方もあったんですね。
それは江戸時代からの風習だそうで、わざわざ小豆を入れるのは、万一飢饉となったときのための非常用の食糧にするためだったといいます。
そんな昔の知恵が、昭和時代の戦争のときにも生きていたのでしょう。
上述の柳田國男「小豆の話」が書かれたのは、昭和18年の戦時中のことでした。
柳田國男が「第一次の戦勝祝賀会」とやらで湯呑み1杯ほどの小豆の配給を受けたのだそうで、それがきっかけでこの小文を書こうと思い立ったのだと、冒頭に述べています。
お手玉1個分、湯呑み1杯分というささやかな量であっても、当時は得難い貴重なものであったでしょう。
そんな小豆を、ふさのやりくり上手のおかげとはいえ、前回の配給分からあんなに多く残していたというのは、まさしく「棚からぼたもち」ならぬ「お櫃(ひつ)からおはぎ」。幸運なことでした。
そうして作られたおはぎの、スクリーンの中とはいえ、なんと美味(うま)そうなこと、美味そうなこと。
永与ならずともゴクリとつばを呑み込んでしまいます。
おはぎは、お彼岸に死者へと供えられる食べものですが、永与や悦子たちの生きるための糧(かて)でもありました。

知世さんのお母上は、こうしたシーンを脚本で読まれたとき、ぽろぽろ涙をこぼされたそうですね。
知世さんの大叔父さん(おばあさまのご兄弟)が出征されるとき、おばあさまがこしらえ、最後に届けたのが、やはりおはぎだったのだとか(雑誌「清流」2006年9月号インタビューより)。
このインタビューでは「届けた」としか語られていませんが、地方新聞のインタビューによると、届けたものの、結局何かの手違いでおはぎは大叔父さんの口に入ることがなかったといいます。
おばあさま、そしてお母上の無念さはいかほどだったか。
おそらくは、当時のこと、ない中から小豆をかき集めるのも一苦労だったでしょう。
そうして、こしらえたおはぎを。
それから後、大叔父さんは戦死し、帰っては来られなかった。
そして戦争は、貴和子さんのエッセー「原石」(扶桑社)によれば、おばあさんやご兄弟──お母上のご家族のいのちをみんな奪い去ってしまった。
しかも、長崎で原爆に出会うという過酷な体験をお母上に残して。
紙屋悦子が感じた戦争の惨(むご)さを、紙屋悦子が感じた哀しみを、お母上は誰よりも理解されていたのではないでしょうか。
戦後、夫唱婦随で苦労され、貴和子さん知世さんたち4人のご兄妹のいのちを育んで来られた。
その長い道のりは、やはり紙屋悦子が永与とともに重ねた歩みとどこか重なる気がします。

知世さん演じるところの紙屋悦子が丹精を込めて握ったおはぎ。
明石はそれをたった1個でしたが、確かにかみしめて死地へと旅立っていきました。
姪の末娘が一生懸命にこしらえた美味しそうなおはぎを、今頃は天国のどこかにいらっしゃる知世さんの大叔父さんも味わっていらっしゃるに違いありません。
(姪の娘という立場は、『姪孫(てっそん)』『又姪』とも言うそうですが。)
彼岸に旅立たれた方々──黒木和雄監督もまた、スクリーンに盛られたそのおはぎを、このお彼岸には改めて味あわれたのではないでしょうか。
此岸にいるおれもまた、この決して甘いだけではないおはぎを、改めてDVDでかみしめてみようと思うのでした。





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