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知世ちゃんったら、もう!
と、久々に知世さんを「ちゃん」づけでつぶやき、思わず笑ってしまいました。
ニューアルバム「Music & Me」初盤特典のDVD「くちなしの丘」PV。
いえ、そのオマケの「くちなしの丘」~ミギテくんとヒダリテちゃんヴァージョン(勝手にそう呼んでいます)~を見たとき。
これが、今回のアルバムジャケットをはじめとする一連の写真を撮り、「くちなしの丘」PVを撮った写真家・森本美絵さんの発案なのか、それとも誰かさんのしわざなのかはわかりません。
が、いかにも知世さんぽい気がしたのでした。
最近、知世さんは知人の幼稚園に行き、絵本の読み聞かせをしたり、子どもたちといっしょに給食を食べたりしたそうですね。
たとえば、そんなときに教わったのでしょうか?
手袋で作る指人形は、保育の現場ではわりあいよく見かけるアイテムな気がします。

イントロでは、両手のその手袋人形を隠したまま、なにげないふつうのたたずまいで正面を向いてる。
ですが、その顔は、ちょうどこれから悪戯をしようと計画を実行する直前の子どものように、目が泳いでる、泳いでる。
歌いだすと組んでいた右手をやおら取り出し、ミギテくんが登場。彼が腕をふりふりリズムをとっていると、やがて、女の子っぽい赤色を身につけたヒダリテちゃんが加わってくる。
サビになると2人は踊りだし、知世さんをはさんで横ノリ(?)状態。
彼と彼女はケンカしたり、抱き合ったり。
で、キスもしたり。
20数年前の知世さんは、キスをするエンジェル人形を見てはにかんでいたものでした(映画「時をかける少女」)。
が、今は、ブチューっと2人の人形に熱烈なキスをさせ、歌をうたうPVにも関わらず、口パクもせずに笑っちゃったりしています。
途中、腕を前にぐ~んと突き出すと、2人の人形は浮き上がり空を飛ぶのですが、そのぐ~んと腕を伸ばすところも、いかにもリラックスした感じ。
知世さんのいかにもリラックスしたときの笑顔って、幼稚園の頃に撮ったというアルバムの中の女の子の笑顔そのまんまになるんですよね。
何十歳になっても。
テレビの映像や写真などメディアの中で笑顔で映ることは多いのですが、そんな素の笑顔を見せることはそう多くはない気がします。
ほんとうに時々、ふとそんな笑顔を見つけると、こちらまでほっかり笑顔になってしまいます。
ちょうど写真集の表紙の裏の「誰もそんなところ見ないだろ」というスペースに小さくほのぼの微笑んでいる写真を見つけたときのように。

今回のアルバム「Music & me」は、笑顔こそありませんが、そんな笑顔も見せているのだろうなと想像できるような、のびやかな歌声を聴くことができます。
深い呼吸をしている。

雲2


さて、アルバムと同名のタイトルを冠したライブ・ツアーの途中、浜離宮朝日ホール「Premium to premium」シリーズに参加したステージを先日22日、聴くことができました。
それまでのツアーに同行(?)したファンの方たちの感想を書き込みやブログでみると、かなり感動的なステージだったそうですね。
しかしどうやら知世さん、初日の前半は特に緊張していたようで、あまり声の調子もよくないようだったとか。
知世さんの「キンチョー」癖は有名です。
2歳の頃から10年以上もバレエ公演でステージに立ち、さらにデビュー後25年も歌い続けていれば舞台慣れしてもよさそうに思うんですが、今もって緊張だけはなくならないらしい。
近年はそのあたりも克服して“緊張”を楽しむ境地に近づいているようなのですが、なかなかに難しいようです。

もっとも、緊張をなくしたらおしまい、という話もあります。
舞台や高座で人前に立つような商売では、多少アガっていた方がよいのだと昔から言われるそうです。
緊張のないリラックスはたしかによさそうに見えますが、緊張感のない、いわば張りのないグズグズの芸を見せられても心を動かされることはないでしょう。
少しでもいいステージにしたいと思えば、緊張するのは当たり前。
つまり、緊張は、向上心や熱意の裏返しだったりもするわけです。
ベテランになるほど、その怖さを知るゆえに、緊張のプレッシャーは大きくなるのだとか。
落語家・桂文楽(8代目)は、高座に上がる前には必ず扇子で「人」という字を手のひらに書いて呑み込んだそうです。
まあ、縁起かつぎのようなもんでしょうが、しかし、半世紀以上の芸歴を重ね、世に名人と謳われた人でも、やはり緊張と格闘していたのはないでしょうか。
完璧主義者ということもありますが、彼は最晩年まで、高座の前には必ず演目のおさらいの稽古をしたといいます。
緊張をねじ伏せるにしろ、飼い馴らすにしろ、緊張というやつといかにうまく付き合っていくかは、パフォーマーにとっては避けて通れない宿命なのでしょう。
(もっとも、文楽と並び称される古今亭志ん生(5代目)は、酒をひっかっけて高座に上がってしくじったり、しまいには居眠りをしても客から愛されたといいます。緊張の“キ”の字も知らないように見えますが、人一倍稽古熱心で芸の虫だった彼には、彼なりの緊張と開き直りの境地があったように思われます。)

……てなことはすっかり忘れておりました。
が、その夜舞台に登場して歌い始めた知世さんを見ているうちに、思い出してしまったのでした。
どこかしら表情や姿勢がこわばっている感じ。
それは、曲と曲のあいだ、時折、両手を組んで体を縮めるような、なにげない仕草にもあらわれていたように思います。
そしてアンコールの合間、ツアーTシャツに着替え、小走りで戻ってきてからのMCで、「(こんなことぐらいで)なんで息が切れちゃうんだろう」と自分でも言い、呼吸が整うまでMCを伊藤ゴローさんに振ったことにもあらわれていたように思います。
つまり、呼吸が浅い。
(なんて、それほど大げさなほどのことでもないんですが。)

もともと、声が前に出てくるタイプのシンガーではありません。
朗々とした歌声を浴びせて客席をリードしたり、歌声を突きつけてその場を支配しようとするような個性ではありません。
そのため、対バンなどには不向きと思われ、多くのバンドが集まり競い合うようなところでは、存在感は示せたとしても、歌声で他を圧倒するというようなことは難しいように思われます。
しかし、客席に歌声を真摯に、ナイーヴさを失わずに届けてくれる。

演出家でもあり、「からだ」と「ことば」についてのワークショップを主宰している竹内敏晴さんのレッスンに、こんなのがあるそうです。
たとえば、2人組となり一方が一方に話しかけるのですが、「聞き手」役は目を合わさず後ろを向いている。
で、自分が「あ、話しかけられているな」と感じれば、振り返って返事をするというもの。
これが近いとスムーズなのですが、3m、5m、7m……とだんだん離れていくと難しくなるんだそうです。
自分が聞き手なんだという約束事の観念にとらわれているうちはわからない。
が、そうした観念を取り払ってみると、
「声が、誰か別な人に話しかけているようだ」
「聞こえるけれど、声が届いてこない」
「頭を通り越して、遠くの人に話しているようだ」
というような感想が返ってくる。
その様子を傍らでずっと見ていると、声が途中で失速して地面に落ちたり、空中に拡散して消えたり、暴投のように遠くへ飛んでいってしまったり……と、声の軌跡がまるでボールのように感じられるといいます。
「話しかけ」役は、何とか声を届かせようと、声の出し方や気持ちの入れ方を吟味し、試行錯誤することになる。
大きな声を出せば届くというものではないらしい。
気合いを入れて力めば届くというものでもないらしい。
感情を込めたとしても、相手がどう思おうとかまわない、言うだけ言ったら言いっぱなし、では届かないのだとか。
それが届くと、「聞き手」役から、
「声が背中にさわった」
「あ、ドンと当たった」
というような感想が返ってくるのだそうです(竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」ちくま文庫)。
声は「相手(のからだ)にふれること」だと竹内敏晴さんはいいます。
「話が胸を打つ」というのは、文字通り、声が胸に当たって「打つ」ことでもあるのでしょう。
これは、ライブでの歌声についても言えるのではないでしょうか。
(物理的には、声はスピーカから会場に響くもので、聞こえる方向もズレることになるわけですが。)
そのことを、おれは5年前の「Best Harvest 2002」ツアー・ライブのときに実感できたと思っています。
知世さんが歌声を投げかけ(それは時に胸を打ち、時にじわり胸にしみ込んで来たりする)、観客は拍手とそして声には出さないけれど反応を投げ返す。
そのキャッチボールが心地よかった。

が、今回のライブは違いました。
からだが閉じられていたような。
だからでしょうか、声は聞こえていても、知世さんが何だか遠くに感じられたのです。
それはやはり「緊張」のせいだったのか?
──いえ、しかし聴いているうちに、そうとばかりは言えない気もしました。

最近、KY(空気読めない)という言葉を耳にするたびに「しゃらくせえや」とおれは思ってしまうのですが、どうやら知世さんは空気を読みすぎる。
というか、場の空気にからだが反応してしまう体質があるような気がします。
ちょっと巫女的。
ライブが始まったときの客席は、いわゆる“あったまってない”状態のように感じられました。
遠足の前の日、ワクワクして眠れなかった子どもの頃を思い出しつつ会場入りした人が、少なくとも100人ほどはいたと思うのですが、そんな内心のワクワクを外へ表すこともなく、むっつり。
若い世代や子どもたちもいましたが、25周年を迎えた知世さんとともにファンもやはり年齢を重ねているわけで、キッカケさえありゃ縦ノリでも横ノリでもしようかと身構えているわけでもなく、「知世っちゃ~ん」と声援を送るでもなく、難しげなクラッシク鑑賞をたしなむ態(てい)で粛々とステージに臨んでいたわけです。
まあ、普通といえば普通なのですが、そのあたりの微妙な硬さが、知世さんに微妙に伝染していたように思われたのでした。
今回のニューアルバムは、自宅のようなスタジオで、いわば「宅録」と呼べるようなレコーディングだったそうですね。
伊藤ゴローさんも、日常の中の自然体で音楽と接する方だそうで、そうした打ちとけた雰囲気は知世さんの歌声にも音楽観にも影響したのでしょう。
ライブでも、伊藤ゴローさんの姿勢は変わらないように思えます。そこが魅力でもありますね。
知世さんもまたステージの上で、つとめて自然体であろうと意識しているように見えました。
しかし、そこにステージの下からの無言の視線の圧力というか、押し寄せる微妙な空気との間にズレが生じ、知世さんはそこから目をそむけていたようにも思えたのでした。
(なんて、それほど大げさなほどのことでもないんですが。)

そうして、ステージが進んでいったときのことです。
ニューアルバムの中の曲(ツアーがまだ続いているので曲名は書きません)が演奏されたとき。
おれはまだ知世さんが遠くにいるように感じていたのですが、いつしか知世さんの姿が演奏者たちと一体となって、その一群の上に、何と言ったらいいのか、極彩色のちょっとアブストラクトな映像が立ちのぼるのを見た気がしました。
いや、これは完全な錯覚ですね。
しかしアンサンブルが美しかった。
「あれ? この曲ってこんなにきれいな曲だったっけ?」と思うくらい。
ピアノとギターの流れにチェロがまるみと厚みを与え、コントラバスが力強さと響きを加え、バイオリンがなめらかにからんでゆく。
それがヴォーカルと渾然となって、まさしく1枚の絵を見るような。

そしていつしか知世さんのヴォーカルも立ってきたように感じられました。
情念を謳いあげるような曲があり。
ステージいっぱいに空をイメージさせる曲があり、ささやきを聴かせる流麗な曲があり。
懐かしい曲では高音のアラが目立ちましたが、後半では高音ものびやかに美しかった。
ふと気づくと、その高音に酔っている自分がいました。

misaeさんは、ブログ(「はあとふるカフェ」http://orange.ap.teacup.com/rivulet/42.html)で、このライブ前半のときは、のどを気遣って声を抑えめにしていたのでは、と推測しています。
なるほど、おれが妄想的にあれこれ感じたよりも、それが真相なのかもしれません。
そして、その細いクリスタル・ヴォイスに癒されたといい、misaeさんはこう記します。
「癒されるって、あんまり簡単には使いたくない言葉ですが、昨日の私の感覚にはそれがいちばん近い言葉かなぁと思います。」
残念ながらおれ自身はそういう感覚にならなかったのですが、確かに観客は「癒された」かもしれません。
そして実は、知世さん自身も、その自らの音楽に「癒されて」いったのではないでしょうか。
「癒される」というのは、単にリラクゼーションという意味で使われることも多いようですが、本来はそれだけでなく、心的レベル、生理的レベルで不調和な状態を、バランスのよい状態に「変容」させることだと思います。
心の状態を変える。からだの状態を変える。
音楽は、たぶんその変えるチカラを持っている。
それは、聴く側にも与えられるものだし、音楽を発し、作る側にも与えられるものであるでしょう。

どんな理由にしろ、最初はどうも知世さん、あまり調子がいまいちだったことは事実のようです。
しかし、伊藤ゴローさん、中島ノブユキさんたち仲間とともに音楽を紡いでいく中で、自らがその音楽のチカラに癒され、チカラに励まされ、本来の調子を取り戻していったような気がします。
最後のアンコールでは、そのまさしく「music & her」の姿をシンプルに、そしてじっくり聴かせてくれました。
それは、「music & us(me)」としても感慨深いものでした。

まあ、ホントの本来はもっと深い呼吸で歌うシンガーだと思うんですけどね。
しかし、ラスト、演者全員が礼をしてハケるとき、ちょっとおどけた駆け足ポーズを何気なくとった彼女は、ほんとうにリラックスした笑顔をチラリ見せてくれた気が……。
知世ちゃんったら、もう!
思わずこちらも、ほっかり笑顔になってしまい、いやあー、しばらく笑顔が抜けませんでした。

雲・輪

雲・ハート


ちなみに、蛇足の蛇足なのですが、ちょっと書き加えておきます。
“からだ”という内なる自然を整える──という本来的な意味での「整体」を創った野口晴哉(はるちか)という人がいます。
大貫妙子さんがその著作を愛読していると聞いて、なるほどと納得したものでした。
その実践的な健康観、自然観に共通のところがある気がしたのでした。
その野口晴哉さんはもう30年ほど前に亡くなりましたが、彼を心の師と仰ぐ片山洋次郎という人が、整体についていろいろ書かれています。
気功などにも触れていておれにはなかなか理解しにくいところもあるのですが、たとえば、
──生きるということは、緊張と弛緩の波を持続させることで、緊張と弛緩の切り替えの加速の瞬間にこそ、生きている手応えを感じることが出来る。
なんていうような刺激的な叙述があったりします。
で、その著作の中に「頭の緊張をゆるめる」と題した文章があったので、ちょっと抜き書きしておきます。

「気功で歯茎の付け根を舌先で刺激させ、唾液を出させて、飲み込むということも同様な効果があるが、頭にエネルギーが集まりすぎていると、唾液が出にくくなってしまう。
頭頂の緊張が強いと唇の筋肉が硬くなってしまうので、思いきり大きく口を開けたり(首は上に反らした方がよりよい)、唇の端を両側に指で思いきり引っ張ってからゆっくりゆるめてやると、頭の緊張がゆるむ。耳も同様なので、引っ張ってからゆっくりゆるめてやると緊張がゆるむ。
おしゃべりや歌をうたうこともおなじような効果がある。うたう前に頭の緊張をゆるめておくと、喉の奥がよく開くので声がよく出る。」
片山洋次郎著『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫より抜粋)

さらに蛇足なのですが、「セルフコントロール」(原野広太郎著、講談社現代新書)などを参考にすると、首を反らせて思いきり口を開けたりするときは、思いきり力を入れて緊張状態にしたまま5秒間くらい数える。
そしてゆっくり力を抜いて(あるいは一気に力を抜いてもいいように思います)、脱力・弛緩状態に。
そのセットを3回ほどくり返すと効果がより大きいように思います。

などと、万が一、知世さんがこれを読んだとしても、効果があるかどうかはまったくわかりませんが、いちおう書いてみることにしたのでした。たはっ。




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