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──pupaは、「コンセプチュアル」なバンド。
と、C.J.さんが、misaeさん(現・R1さん)のHP「Orange House」の掲示板で書かれてました。
なるほど、その通りです。
アルバム「floating pupa」の全曲に「floating(浮遊感)」というようなコンセプトが流れてる。
テーマと言ってもいいでしょう。

アルバム・タイトルと同名の収録曲「floating pupa」はインストゥルメンタルですが、
楽曲の中に言葉が逆回転のかたちで織り込まれています。
C.J.さんが曲全体を逆回転させてアップしてくれまして(現在は消去されているようです)、
その“リバース版”を聴くと、暗号かアナグラム……いえいえ、jargon(=隠語。あるいは素人にはわからない専門用語)のように曲にひそんでいた言葉が浮かび上がってきます。
残念ながら、高橋幸宏さんのつぶやきは「pupa!」という箇所以外はよく聞き取れません。
が、知世さんのささやく言葉はわかります。

「流れていく
浮かんで
ふわふわ
人が流れる
川が流れる
街の中」


ライブの演奏では、この言葉の逆回転をサンプリングした音を、たぶん、たしか、おそらく、知世さんがシーケンサー・サンプラーか何かで流していたかと思います。

huusen-g.gif

“pupa”は、“蛹(さなぎ)”のこと。
幸宏さんの趣味であるフライ・フィッシングの用語なんだそうです。
バンドのネーミングを考える際、用語を並べた中で、「ピューパ」という語感を知世さんが気に入ったのだとか。
カゲロウやカワゲラなどなど、水生昆虫の幼虫は川底で暮らしています。
中でもトビケラやガガンボ、ユスリカなどの幼虫たちは、成長すると蛹(pupa)になり、羽化して成虫となるべく川底から水面へと浮上(float)する。
幼虫のときや、それから成虫となってからも魚に食べられる危険性はおおいにあるわけですが、
この無防備に浮遊するpupa状態は魚たちの恰好のご馳走となります。
フライ・フィッシングでは、そんなfloating pupaのイミテーションを疑似餌として釣り針に付けて魚を釣り上げるのだそうです。

幸宏さんは言うまでもなく、堀江博久、高田蓮、高野寛、権藤知彦といったメンバーの面々はいずれも中堅どころのベテラン・ミュージシャン。原田知世もまた26年のキャリア。
そんな彼らが新人バンドとしてサナギを名乗るところが味なとこ。
またもしかしたら、成虫という到達点にあぐらをかかず、いつまでも挑戦し続け、成長し続ける存在としての意識があったりするのかもしれません。
が、しかし、それはそれとして、現代に生きるおれたちって、みんなどこかサナギの気持ちがあるような気がします。
昔は成年となるための通過儀礼がきちんとあって、社会を構成し、社会に参画する成人としてのオトナな意識が明確にありました。
けれど、今のオトナってそうした区切りがないままに、どこかしらコドモというか、少年少女の意識のしっぽを心の中に引きずっていたりするのではないでしょうか。
もちろん電車や映画館に行けば大人料金を支払いますし、時々は“大人買い”だってしちゃいます。
社会人として、あるいは親として、顔と役割りと責任の持ち合わせだってあるわけです。
メタボなお腹が少々(だいぶ)気になってきた自分自身を省みれば、
「いい歳したオッサンが何をやってんだろ」
と、ひとりツッコミもしたくなるお年頃です。
が、「This is オトナ!」、「これがオトナってもんだぜ!」と、
威張って、確固として、胸をそびやかすことの出来ない自分も心の中に居たりする。
そうして、キッパリと錨を下ろして成熟した根っこを張れないまんま、
時代に流され、都会を漂流している自分の姿が見えたりもします。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかた(泡沫=あぶくのこと)は、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

と、13世紀を生きた鴨長明さんは嘆息したものでした(「方丈記」)。
彼が記した無常の川は、21世紀の今もこの街を流れているのでしょう。
そしておれたちはオトナになりきれないサナギのまんま、「うたかた」のように漂い流れ続けている。
そんなfloating pupa(漂流するサナギ)の風景と、コンセプチュアルなバンドである彼ら(pupa)の音楽はつながっているのだと思います。

雲1

もちろん、コンセプトがどうのこうのと言葉を並べたてずとも、音楽は気軽に楽しめるわけで、
その楽しさは、去年の夏「WORLD HAPPINESS」の野外フェスでおおいに実感したものでした。
電子無機音を駆使したエレクトロニカではあるのだけれど、どこか有機的(オーガニック)な感触。自然と相性がいい。
加えて、親しみやすいポップス性。
緑に囲まれた真夏の広大な空間に降り注がれた音時雨(しぐれ)の軽やかなシャワーは清涼飲料水にも似て、
それだけでサラサラと気持ちのいいものでした。
「floating(浮遊感)」の感覚そのままにリラックス。
遠く離れたステージ上のメンバーを見ようと、おれは背伸び気味に立ってはいましたが、
そのままごろり、ゆったりと芝生に寝転んで聴きたい誘惑にしばし襲われたものです。

ところが。
冬のツアー「floating 6 pupas」(11/30東京公演)のステージでは、印象がまたガラリ変わりました。
改めて6人の演奏と相対して向き合ったとき、改めて「floating」というコンセプトが浮かび上がってくるように感じられました。
「floating pupa」の演奏。
「人が流れる。川が流れる……」
という逆回転の“jargon”の言葉通り、川を浮遊し、漂流するイメージ。
伊勢聖子さんのスクリーン映像では、ちょうど川面を浮かび流れるその地点からの眺めのような、
川辺の葉の茂みの中を移動する風景。
観客自身が、川を流れていく錯覚。
それはまるっきり自然の光景なのですが、しかし、雑然とした都会の喧噪を重ねてイメージしてしまったのは、やはり曲についての予備知識が頭にあったせいでしょう。
また、アルバムとは異なるアレンジ展開。
終盤、まるで「creak(きしみ)」が増していくように、不協和音が加速度的に加わっていき、加わっていき、その頂点で
バーン!
とブレイク・オフ。
ビートルズ「A Day In The Life」のエンディングにもちょっと似たような。
と、その瞬間、一気に大気圏を抜けてスクリーン映像が宇宙に切り替わる。
突然のテレポーテーション(瞬間移動)。
川辺の葉の間を移動していた映像から、星々の間を移動する映像へ。
「Laika」の演奏が始まり、観客は地球を離れ、宇宙空間を漂流することになります。

kamome.gif

「Laika」については、HPにちょっと書いたのですが(「New Euro Cafe」~「translation」のページ)、
その後、映画「My Life As A Dog(MITT LIV SOM HUND)」をDVDで観ることができました。
幸宏さんはこの映画を観て、“ライカ犬”の存在を知ったのだそうです。
旧ソ連の人工衛星スプートニク2号に、実験動物としてセンサーのワイヤーやチューブを装着され乗せられた犬。
   →スプートニク打ち上げから50年経ったことを伝える記事

映画の舞台はソ連ではなく、当時のそのライカ犬のニュースが伝えられた1950年代末のスウェーデンです。
少年イングマルの父親は船乗りらしくずっと不在。
元写真家の母親は病気に臥し、ケンカばかりしているイングマルたち兄弟に手を焼き、癇癪ばかり起こしている。
そのためイングマルと兄は家に居られず、別々に親戚に預けられ、やがて母親は入院を余儀なくされて還らぬ人となります。
少年期という人生の出発点でイングマルは、自分を保護し、支え、支柱となるはずの愛を失ってしまう。
映画の全編に渡って彼が繰り返し思い出すのは、まだ母親が元気な頃、小さなイングマルがおかしなことを言って母親を笑い転がせた海辺のひとときでした。
その幸福な思い出が、彼を支える。
そしてまた彼が繰り返し想像するのは、幼い彼がそれまでの人生の中で耳にした不幸な人々の話。
“エチオピアへ布教をしに行ったところが、こん棒で殴り殺された女宣教師”。
“ターザンのまねをしてツルをつかもうとして、高圧電線をつかんで死んだ男”。
“オートバイで31台のバスを飛び越え、記録を作ろうとして失敗して死んだ男”……。
ご本人には失礼ながら、ちょっとユーモラスでもある悲劇の当事者たちです。
彼らの不幸な運命に比べれば、自分はまだまし。
他人と比べることで自分のことを客観的に見て、不幸を乗り越えようとするんですね。
そんな不幸な運命の最北の例としてたびたび登場するのが、ライカ犬でした。
その死因については、今は機体の過熱や急激なストレスのためという説が有力だそうですが、映画では餓死させられたと説明されています。
いずれにせよ、母なる地球から切り離され、茫漠たる宇宙の片隅で鉄の塊に閉じ込められたまま孤独死を迎えた彼女(ライカ犬は雌だったそうです)のイメージは鮮烈で、
確かに彼女の不幸に比べれば、地上のあらゆる不幸もまだましと言えるかもしれません。

雲・輪

そうして映画では、親戚のおじさんに預けられ、町の人々の中で生きるイングマルの日常が、ユーモアと詩情を交えつつ、淡々と描かれていきます。
善人でも傑物でもないし、取り立てていい人でもないけれど、おじさんをはじめとする、このごく普通な、けれど個性的な町の人々や仲間とのふれあいを通して、イングマルは自分の居場所を見いだし成長していく。
それには、1950年代末という時代的な背景もあるでしょうか。
冬ともなればいかにも寒そうな北欧の小さな町で肩を寄せ合い暮らす共同体には、
家族バラバラとなって母親と訣別せざるを得なかった少年を包み込む温もりがあるような気がします。

たとえば映画には、なぜか屋根の上で四六時中、修理にいそしむ風変わりなおじさんの隣人が登場します。
  (そういえば、スウェーデンの児童文学作家リンドグレーン女史の作品に、
   カールソンという屋根の上に住む小さな風変わりなおじさんのシリーズがありました。
   スウェーデンの屋根はヘンなおじさんと縁があるのでしょうか。)
彼のエキセントリックさの度は激しく、なぜか真冬の凍てつく川へ飛び込んで泳ぎ出します。
そんな彼は道化的な存在で、子どもたちは囃し立て、人々は笑い合って見物をきめこむ。
ところが、いざ彼が溺れかけたらみんなで必死で救い上げ、ガラス工場の炉の前で体を暖め、無理矢理ワインを飲ませたりする。
そんな様子を見ると、どうやら彼を排除するわけでもなく、かといって形ばかりの人権擁護を振りかざすわけでもなく、ともに暮らす仲間として文句など言い合いながらも、町はごく自然に彼を受け容れているようです。
エキセントリックなおじさんにも帰る町がある。
そして、イングマルにも帰るべき町が出来たことが映画のラストで語られます。
それに比べれば、帰るべき町も、声をかけてくれる仲間も、帰るべき星さえも失ったライカ犬は確かに不幸に違いありません。

しかし、イングマルが少年期を送った時代から50年。
21世紀の街を浮遊し、漂流するおれたちに、帰るべき町は、帰るべき星はあるのでしょうか?
まるで、おれたちがライカ犬のような。
ライブで「floating pupa」から「Laika」が演奏され、宇宙空間を漂流する映像をスクリーンで眺めたとき、そんな錯覚に襲われたのでした。

huusen.gif

ところで村上春樹さんの小説「スプートニクの恋人」にも、ライカ犬のモチーフがたびたび登場します。
といっても物語の舞台は主に現代の日本で、スプートニクとは直接関係ありません。
スウェーデンの地方の町でイングマルが少年期を送っていた1950年代末、アメリカのアンダーグラウンドから登場した詩人たちはビート・ジェネレーション、またはビートニクと呼ばれました。
(幸宏さんと鈴木慶一さんのユニット、“ビートニクス”はもちろんこれを踏まえているのでしょう。)
小説の登場人物の女性が雑談の中で、その「ビートニク」を思い出そうとして間違え「スプートニク」と言ってしまったことから彼女がそう呼ばれ、この表題が付けられています。

物語で描かれるのは、三角関係。
といっても、一方通行の三角関係です。
語り手である「ぼく」は、すみれという女の子に恋愛のような感情を抱いている。
が、作家志望である彼女は恋と無縁のように生きており、「ぼく」は想いを言い出せない。
そんなすみれが、同性である17歳年上の女性への恋に突然落ちることから物語は展開していきます。
その彼女、ミュウが「スプートニクの恋人」です。
ミュウはある特異な体験以来、恋愛感情を持つことが出来ず、すみれはそんな彼女を恋し、「ぼく」はそんなすみれを恋する。
それぞれ一方通行の三角関係ながら、互いにその距離を縮めることも触れ合うこともできません。
そんな3人はさながら、同じ軌道をともに漂流し伴走しながら、交叉することも接触することもない人工衛星のようです。
ライカ犬のような絶対的な孤独をそれぞれに抱えつつ、その小さな窓から、触れ合おうとしても触れ合えない隣りの人工衛星を眺めている。
もしも人工衛星同士が接触するとしたら、それは互いに機体を破壊し合う事故を意味します。
「スプートニクの恋人」というタイトルには、そんな意味も含まれているかもしれません。

やがて、ヨーロッパ旅行ですみれはミュウとの距離を縮めようとアプローチしますが、ミュウがその感情に応えることのないことを知ります。
それは機体を破壊する事故とはなりませんでしたが、彼女の何かが壊れたのでしょう、すみれは旅先のギリシアの小島で失踪します。
ミュウは必死で捜し回り、「ぼく」もギリシアへ駆けつけますが、結局、すみれの行方も失踪の原因もじゅうぶんに明かされない謎のまま、「ぼく」は「ぼく」の日常へと戻り、物語は幕を閉じてしまいます。
「ぼく」の胸に、そして読者の胸にも、喪失感を残したまま。
しかもその喪失は非現実じみていて、喪失感の実体さえ釈然としないまま。

雲2

小説には、「記号と象徴の違いについて200字以内で述べよ」というような設問が唐突に出てきます。
記号は、実体がなくても成立し、交換が可能。
象徴は、実体を伴い、交換することは出来ない。
(ライカ犬は、カンタンに取り替えが可能な実験動物として死ななければなりませんでした。
科学の発展と人類の進歩のための犠牲というより、実験体ナンバー○○号という記号的な捨て石として。
けれど、その死によってイングマルにとっての象徴となったように、今も象徴として21世紀を生きているのかもしれません。)

象徴化することは出来ても、記号化することの出来ない最たるものは、人間というものの存在ではないでしょうか。
人間を、道具や兵隊や金ヅルなど、モノとして見る人間観においては記号とすることも可能です。
現代は、人間をむしろ記号化するように企まれている気がします。
カフカや安部公房の小説の主人公が「K」などと記号で呼ばれるのも、これはひとつのアイロニーでしょう。

たとえば、HP上で公表されている厚労省の統計によれば、2006年の日本の死亡者数は108万4千人。
そのうちのひとりは、1/1084000に過ぎませんし、その死は、彼の国民総背番号のナンバーのデータに死亡済みのマークが付けられる、あるいは削除されるだけのことかもしれません。
けれど、残された家族や友人や周りの人々にとっての彼は、データや数字や記号で表せるものではないでしょう。
彼の声。言葉。笑顔。彼が通勤に使っていた靴。彼と過ごした思い出。彼と行った居酒屋。メールに残された文章……。
象徴も含めたそうしたすべての総体としての彼という存在、そしてその喪失は、薄っぺらな記号に還元することは出来ない。
本来的に、その人という存在は取り替えはきかない。
交換不能なかけがえのないもの。
すみれを喪失した「ぼく」は、そのことに改めて気づくような気がします。

つまり、仕事にしろ人づき合いにしろ、その日常を破綻なく卒なくこなし、
その実、帰るべき場所を失い浮遊しつつ漂流しつつ、かけがえのないものを喪失している主人公「ぼく」の心象風景が、
現代の風景のひとつとしてあると思うのです。
彼は、50年前のイングマルのように、「あのライカ犬に比べれば、ぼくはまだましだ」と言うことは出来ないでしょう。
なぜなら、彼自身がライカ犬なのですから。
もちろん“象徴”としてですが。

huusen-y.gif

さてしかしながら、ライブでのpupaの演奏は、重だるい理屈っぽさとはずいぶんかけ離れたところにありました。
オシャレでポップでキラキラ。
それでいてサナギ(pupa)らしからぬアダルトな安定感。
けれど、サラサラ、キラキラと響き合う流麗なそのエレクトロニカの向こうに、浮遊感を謳いながらも浮ついた上滑りに堕さない、背景のテーマがほの見えるように思えました。
たとえばそれが宇宙を漂流し都会を漂流する者の虚無の中の孤独だったとしても、叙情性を失わずに。
そして、なぜか明るい。

2008年3月のライブで知世さんがカバーした「By this river」
ブライアン・イーノは、この曲の1970年代の発表当時、こう歌いました。

「Here we are
Stuck by this river

(ぼくたちはここにいる。この川の行き詰まった場所に。)

1910年代の明治という時代に石川啄木が「時代閉塞の現状」を嘆いたように、
いつの世でも人々は時代の行き詰まりを感じ、また時代も繰り返し行き詰まるのでしょう。
pupaもまた「Creaks(きしみ)」を感じ、この時代の行き詰まりを感じているように思われます。ですが、彼らはこうも歌います。

「Somewhere down the river we'll be free
(川を下ったどこかで ぼくたちは自由になるだろう。)
『Sunny Day Blue』

そして究極のラブソングとも思われる『Home Of My Heart』では、
安息することなく都会の川を浮遊し漂流し続けた男が、その長い旅の終わりに帰るべき場所を見つけます。

「I've come to the start of the end of this road
Beside you is where I would be

(この道の"はじまり”であり”終わり”である場所へ、ぼくはやって来た。
君のかたわら、そこがぼくの居る場所。)

彼はパートナーのかたわらに、身を横たえる(おそらくは死を迎える)安らぎの場所を見いだします。
イングマルが、自分の帰るべき町を見いだしたように。
パートナーである「君」こそが、「home of my heart(わが心の故郷)なのだと。
いやあー、そんなふうに言えちゃうというのは、幸せだと思います。
そんなふうに言うまでの歴史もあるだろうなあと思わせられます。
それは、「スプートニクの恋人」の“恋人たち”とは呼べない距離をもった彼ら、旅の伴走者たちが、もしかしたら望んでいたことなのかもしれません。

雲・ハート

さてさてしかし、「floating 6 pupas」ライブでは、コンセプトより何より、
「音」そのもののパフォーマンスに血わき肉おどり、意識を持ってかれる気さえしたものでした。
音楽ってスゴイ。
メンバーがそれぞれ真剣に遊び、いろんな音を駆使して奏でる。
堀江さんのキーボードを中心に繰り広げられるエレクトロニカ、繊細なピアノのフレーズ。
※堀江さんは、ヴィオリラという楽器(大正琴の仕組みを進化させた弦楽器だそうです)も演奏していたのでしょうか。残念ながらおれは気がつきませんでした。
高野さんのギターはもとより、テルミン、エレキシタール。
蓮さんのペダルスティールはもとより、マンドリン、ギター。(「Creaks」のボトルネック、これがカックいいんだ、また!)
権藤さんのユーフォニアムがいいとこで歌いあげ、さらに、グロッケン、メロディオン(鍵盤ハーモニカ)。
知世さんのエレクトリック・バグパイプ。
言わずもがなの幸宏さんのドラムス!
加えて今宵は、グルーヴ感あふれる細野晴臣さんのベース!
そして、それぞれのヴォーカルとコーラス。
みんなの声とみんなの音が主張して融け合って呼吸が通い合って、
ああ、pupaってバンドなんだと今さらながらに思わされ、
ああ、バンドってやっぱいいよなあと思いました。

いいもんですよねえ、バンドって。
おれも昔(といっても社会人になってから)、アマチュアのオンボロ・バンドをやっておりました。
ご多分に漏れず、音楽観の相違があり、いがみ合いがあり、ケンカもありましたが、
「せーの」でドガヂャガ演(や)り始めると、「あ、今、メンバー全員がおんなじ呼吸をしてる」と思えるような瞬間があり、
下手でも糞でも、バンドっていいもんだとしみじみ実感したことがあります。
もちろんpupaと比べるなど、滅相もありませんが。

雲2

「スプートニクの恋人」の小説の中で、「スプートニク」という言葉は、ロシア語で「旅の仲間」というような意味のあることが語られています。
「旅の仲間」だなんて、「指輪物語(ロード・オブ・リング)」の第二部のタイトルみたいですね。
ライカ犬を閉じ込めた鉄の塊が「旅の仲間」というのは皮肉なものです。

が、しかし、もしも彼女に文字通りの「旅の仲間」がいたとしたなら……?
たとえば、生と死のスパイラルの川を航行し旅するヘイト船長のかたわらに、ラヴ航海士という仲間がいたように。(鈴木慶一+曽我部恵一『ヘイト船長とラヴ航海士』より)
帰るべき星から切り離され、虚無の宇宙を浮遊し漂流する彼女の孤独な旅に、道連れの仲間がいたとしたなら……。
たとえば、それがもしもpupaのようなバンド仲間であったとしたなら……。
たとえ宇宙のチリと消える運命は変わらないとしても、彼女は幸福な人生のひとときを過ごしたのではないでしょうか。
pupaのステージをともにした観客と同じように。

星空を眺めるイングマル少年もきっと、うらやましがったに違いありません。




yakkosan






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