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ここに1冊の本があります。

「長崎の女たち」2

長崎女性史研究会編による「長崎の女たち・第2集」(長崎文献社)。

最初は、長崎を生きた女性たちを知るための「学習会」として発足したんだそうです。
それが「研究」会としての活動となり、1991年、「長崎の女たち」第1集を出版。
以後も、16年間、会は重ねられ、2007年、この第2集が発刊されました。
主に女性を中心としたメンバーによる、およそ20年にわたる活動の成果です。
歴史を語り継ぐとともに、これは、長崎を生きた女性たちの愛や哀しみや怒りやよろこびに彩られた個人史──“物語”の記録でもあります。

取り上げられているのは、「長崎ぶらぶら節」のヒロイン、愛八(松尾サダ)。
愛八より先に「ぶらぶら節」をレコード化していた凸助(山本タマ)。
シーボルトの娘として生まれ、日本で初めて西洋医学の女医となった楠本イネ。
近代教育の先駆者であり、活水学院の創立者であるエリザベス・ラッセル。
長崎で生まれ長崎で育った、作家の仲町貞子や佐多稲子、障害児教育の石井筆子……。
他にも「からゆきさん」と呼ばれた悲劇の密航婦たち。
キリシタンとして信仰に生きた女性たち。
原爆の被爆という運命と闘い続け、平和を希求した女性たち。
さらには、画や民芸、音楽、福祉、市民運動などなど、各界で活躍された多士済々の女性たちが登場しています。

そんな中、第2集に取り上げられている一人が、鳳洋子さんです。

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今では長崎名物とも言える路面電車が長崎の町を走り始めた大正時代。
その運転開始の年から2年後、大正6年(1917年)に、長崎市の稲佐にお生まれになっています。
少女時代を長崎で送り、エリザベス・ラッセル女史が創設した活水女学校へ入学。
そして女学校3年生のときに、長崎公演へとやって来た石井漠バレエ団と運命的な出会いを果たします。

石井漠は、日本の現代舞踊の創始者といわれる人。
1911年、竣工されたばかりの帝国劇場で創設された歌劇部の第1期研究生として、
イタリア人のローシーから、声楽や演劇、クラシック・バレエの基礎を学んでいます。
やがて、演出家・小山内薫や作曲家・山田耕筰の協力を得て、
自ら創作した“舞踊詩”を発表をします。
酷評を受けたものの、以後、舞踊家としての道を歩み、
草創期の宝塚歌劇団の洋舞の指導をしたり、また浅草で東京歌劇(オペラ)座を旗揚げし、人気を得ます。
そして1922年、妹である舞踊家・石井小浪とともに渡欧。
ドイツやパリでの公演は評判を呼び、さらにアメリカへ渡っての公演は絶大な評価を受けます。
帰国後は、東京・自由が丘に研究所や学校を開設。公演を続けながら、後進の指導にあたります。
(この「自由が丘」という地名は、石井漠が名付けたのだそうです。)
が、その後、けがや病気のために失明し、戦争ですべてを焼失するなど、必ずしも順風ではなかったようです。
しかしそうした逆風を乗り越え、眼が見えぬままに取り組んだ大作「人間釈迦」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
この時、石井漠67歳。1953年のことでした。
そうして甲状腺がんの手術を2度受けた後もなおも舞台に立ち続け、1961年10月、「石井漠舞踊50周年記念」の大会でアンコールのステージに立った彼は、
「この上もみんなと一緒に勉強いたします。よろしくお願いします」
と、挨拶を述べたといいます。
紫綬褒章を受け、75歳を迎えたその齢になっても、まだ勉強を続けるつもりだったんですね。
それから3ヶ月後の1962年1月、息をひきとります。
最期の言葉は、
「目が見えてきた」
だったとか。
自らを「をどるばか」と称したという彼は、その踊りぬいた生涯の果てにどんな風景を見たのでしょうか。

さて、「長崎ぶらぶら節」の愛八姐さんが12月に突然倒れて60歳の生涯を終えるまで、まだ現役でお座敷をつとめていた1933年(昭和8年)、
この石井漠の踊りに、当時15歳の鳳洋子さんは出会い、感銘を受けるのです。
そして、なんと女学校の退学を決めてしまい、単身上京。石井漠のもとへ押しかけ、内弟子となります。

望んで受けたレッスンでしたが、石井漠のレッスンは想像以上の厳しさ。
さらにはレッスン場の雑巾がけやら、水汲みやら、家事全般。
行儀作法や料理、掃除、電話の応対に至るまで、石井漠の夫人である八重子女史に徹底的に叩き込まれたそうです。
その過酷さには足腰が悲鳴を上げ、足をひきづって歩いたものだったと後に語っています。

後年、鳳洋子さんがひらいたバレエ教室は、レッスンはもとより行儀作法でも厳しいことで知られましたが、
その原点はこの修業時代にあったのかもしれません。
「辛くて悲しくて夜布団の中で故郷恋しさに泣いていた」
と、当時のことをインタビューで述懐していたそうですが、まだ10代の女の子であってみればそれも当然でしょう。
が、しかし、彼女はめげず、たゆまず、レッスンに励み続ける。
そうして4年、師・石井漠に認められるようになります。

石井漠は多くの後進を育てましたが、中でも優れた弟子には、ちょうど日本古来の家元制度のように、
石井という姓を与えています。
現代舞踊協会会長をつとめられ、昨年2008年に亡くなられた石井みどりさんも、高弟のおひとり。
国際的に活躍されている石井かほるさんは、石井漠晩年の弟子なのだそうです。
鳳洋子さんもまた、石井姓を許され、石井洋子として石井漠バレエ団で活躍します。

そうして、1939年(昭和14年)、独立。
名前も「石井洋子」から「鳳洋子」と変え、「鳳バレエ研究所」をひらきます。

この年の7月1日から10日にかけて、鳳洋子さんが、“鳳久子舞踊団”のひとりとして、
京都の松竹劇場に出演した記録が文献に残っていました
(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編「近代歌舞伎年表・京都編」第10巻 昭和11年〜昭和17年/八木書店)。
鳳久子さんは、旧名を「石井久子」といい、やはり石井漠門下で活躍された方。
洋子さんは、いわば一門の姉弟子であるこの方とともに、姓を「鳳」とされたのかもしれません。
当時の演目を伝える「京都日出新聞(7月1日付)」の記事は、
洋子さんのことを
「幽婉(ゆうえん)」=奥深く上品、奥ゆかしく美しいこと。
と評しています。

しかし当時は、1930年から始まった昭和恐慌によって経済的な困窮と人々の不安感はいよいよ高じ、
国家統制へ、やがて第二次大戦へと雪崩れ込んでいく時代。
“バレエ”という文化活動にとってはけっしていい時代ではありませんでした。
そんな時代を、バレエに関しては一流とはいえ、弱冠22歳の女性が生きていくのは生易しいことでなかったことは想像に難くありません。
その後、鳳洋子さんは日劇ダンシングチームに入団しますが、入団したその年、1941年(昭和16年)の暮れに太平洋戦争が勃発。
戦争が始まると、日劇では公演どころか、劇場内で風船爆弾が製作されるようになったといいます。
かつて知世さんが出演した「星の流れに」というドラマで、“関西少女歌劇団”が軍当局によって統制と弾圧を受け、解散に追い込まれるエピソードが描かれていましたが、まさしくそんな時代だったのです。

翌1942年、招かれて満州のハルピンへ。大陸各地を慰問公演。
弾薬の匂いと土ぼこりにまみれ、明日をも知れぬ戦場へ向かう兵士たちにとって、鳳洋子さんたちの踊りはひとときの安息であったでしょう。
が、戦争はいよいよ激化し、公演どころではなくなってくる。
やむなく「待機」というつもりで、故郷長崎へ。
後に鳳洋子さんは「長崎へ帰ってきてよかった」という一文を雑誌に寄せていますが、
この当時は踊りを続けることかなわず、国家総動員法によって兵器作りに従事させられる日々。内心、無念の想いが切々とあったに違いありません。
そうして女子挺身隊として、いつものように長崎市の三菱兵器製作所へと通っていった1945年(昭和20年)8月9日。
朝からの空襲警報が解除され、再び工場の作業にとりかかっていた午前11時02分。
一瞬にして数万人の生命を奪い、半世紀を過ぎた現在もなお被爆者の方々を苦しませ続けている閃光が長崎を襲います。

鳳洋子さんがいらっしゃったという三菱の兵器製作所は、大橋工場か茂里町工場かのどちらかと推されますが、しかし今、地図を見てみると、どちらも爆心地といわれる松山町の目と鼻の先にあります。
これではどちらであっても、絶大な被害を被るのは必至です。
ところが、鳳洋子さんは生き延びられる。
しかも、大きな外傷を受けなかったというのは、これは奇跡という他ありません。
が、放射能の影響でしょう、喉のリンパ腺が腫れて化膿し、相当に苦しまれたようです。
それはもしかしたら一時的な症状にとどまらず、あるいは生命を脅かす不安を伴って、その後の人生に影を落としていたのではないでしょうか。

そして、ついに戦争が終わる。
長崎に来られていた石井カンナさんと再会。
石井カンナさんは、石井漠の実の娘で、やはり舞踊家として戦前から舞台に立ち、石井漠バレエ団のスターだった方。後にブロードウェイでも活躍されています。
そのカンナさんとともに、二人でレッスン場をひらいたのが1949年(昭和24年)。
が、1年半後にカンナさんは長崎を離れます。
1951年(昭和26年)、鳳洋子さんはあらためて研究所を開設。
そうして、生徒たちと第一回発表会を長崎市・出島町の三菱会館(現・トレディアホテル出島)で開催します。

「戦いが終わって平和が来たのだとしみじみ感じさせてくれるものが鳳バレーの発表会だった」
と、その後回数を重ねていく発表会について、今でも長崎の市民が語っているそうです。
しかし、戦争が終わり自由に踊ることのできるよろこび、踊ることが許される平和になったのだというよろこびを、誰よりひしひしと感じていたのは、鳳洋子さんご自身だったでしょう。
最初の発表会が行われた三菱会館の会場を取り巻く観客の長蛇の列を目にしたとき、思わず涙があふれて止まらなかった。
鳳洋子さん、このとき、34歳。
戦争をはさむ激動の時代の中、バレエを志し独立してから10数年がたっていました。
その涙の中で、生涯をバレエの道に捧げること、立派なバレリーナを育てることを、あらためて決意したといいます。
(以上、緑色部分の引用は、「長崎の女たち・第2集」によります。)

雲2

やがて、後援会のすすめで、市内の諏訪神社近く、出来大工町に研究所を新築。
「鳳バレエスタジオ」は、長崎の町に根付いていきます。

そんな1969年(昭和44年)のある日。
4歳の女の子が教室にやって来ます。
その子には4人兄弟がいて、そのうち3人が女性の姉妹。
いちばん上の長女はすでに生徒で、もう10年以上スタジオに通っています。
12歳年下の次女であるその女の子は、人見知りで泣き虫。
幼稚園でもしょっちゅう泣いてばかりいるのを心配したお母さんが、バレエを習わせたらしっかりするのでは、と連れて来たのでした。
ところがその子は、バレエスタジオでも、ミイミイ泣いてばかり。
困って相談する鳳洋子さんとお母さんがふと傍らを見ると、ついでに連れてきた末っ子の三女である2歳の妹が、稽古場で無心に遊んでいます。
二人は、妹といっしょだったら女の子もお姉さんらしくしっかりなるのではと考え、本来なら3歳以上のところを特別に許可して2歳の妹をともに入門させます。
かくて幼い姉妹は、その後の10数年間、長崎のあの路面電車にガタゴト揺られて1時間、バレエスタジオへと通って来ることになるのでした。
そう。
原田貴和子さん知世さん姉妹の少女時代のエピソードです。

先述しましたが、鳳洋子先生のレッスンは、とにかく厳しいことで知られていたようです。
もちろん年齢に応じてでしょうが、姿勢が悪いと背中に竹の棒が入れられる。
入れられたまま、踊らされる。
間違ったり、ぼおっとしていると、容赦なく張り手が飛んで来る。
泣けば、泣きやむまで稽古場の外に出される。
「もう、出ていきなさい!」
「教えたとおりにやれないのなら、そこにずっと立ってなさい!」
「なにやってるの!」
――レッスン場に、よくこんな怒った声が響いていました
(原田知世「時の魔法使い」角川文庫より)。

いかにも前近代的なシゴキと言ったらそれまでですが、しかしここには、小さな子どもにも、いえ、子どもにだからこそ、おろそかにせず神髄を教え伝えようとする真剣さと迫力があるように思われてなりません。
私的な教室であってみれば、“経営”としての運営も求められたはず。しかし、もしも経営的な観点からのみ生徒数獲得に汲々としているのであれば、必要以上に厳しい指導はNGです。
指導は甘く、楽な教室であれば、生徒は来やすい。指導者も楽です。
が、今、あちらこちらで見られるそうした傾向とは明らかに逆行しています。

ところがそのような厳しさに関わらず、後に知世さんは、週2回のレッスンが楽しみで、当時の季節はバレエを中心に回っていたと綴っています(「時の魔法使い」同上)。
幼い頃は怖くてたまらず、始終泣いては稽古場の外に出されていたという貴和子さんも、いつしか踊ることの楽しさを覚える。
やがて舞台に立つようになり、辛さや苦しさを乗り越えて達成することの楽しさを知っていく。
風邪で学校を休んだ日はあっても、レッスンだけは休まなかったといい、「私の青春時代は、バレエそのものだった」といいます(原田貴和子「原石」扶桑社)。
そして、
「芸の道の険しさ、厳しさ、そして無心に稽古に打ち込むことの楽しさをこの時期、バレエを通して学んだように思う。」「原石」同上より)
と書き記しているのですが、これはそのまま、鳳洋子先生を通して学んだことであったかもしれません。
知識や理屈でなく、体で学んだこうした体験は、将来、バレエ以外の道に進んだとしても大きな財産となるに違いありません。
ましてや芸の道を選んだ貴和子さん知世さんであれば、なおさら。

初期の弟子である段恵子さんによれば、鳳先生の私生活は、踊ること以外に何の趣味もない、踊る以外に楽しみを持たない方だったといいます。
「若い人たちと一緒にいるのだから身を正しくして、人に後ろ指を指されてはならないと私生活は厳格で清潔だった」
のだそうです(「長崎の女たち・第2集」同上)。
行儀作法も含め全人的に、若い弟子たちを厳しく指導された。が、その前に、まず自己自身を厳しく律しておられたのでしょう。
そのたたずまいは、いつも背筋をピンとのばして毅然とした印象だったのだとか。
後年、知世さんが女優・歌手としてデビューしたとき、角川春樹さんをはじめ多くの人が、その第一印象に「背筋がピンとのびた姿勢のよさ」をあげていました。
それは2歳の頃から薫陶を受けた師匠譲りのものだったのかもしれません。

厳しさを通じてバレエの楽しさを学んだのは、もちろん原田姉妹に限りません。
鳳先生のもとからは、段恵子さん(現・赤い靴バレエ団)をはじめ、舞原美保子さん(現・バレエスタジオ「プレリュード」)、前田佳寿美さん(現・前田佳寿美バレエスタジオ)、古賀理枝さん(現・古賀理枝バレエスタジオ)、平原愛子さん(現・愛花バレエ教室)、西由美子さんといった舞踊家の方々が育っています。
舞踊の道に進まなかったとしても、少女時代、先生の弟子だったという女性は長崎の街に数多くいらっしゃって、今でも
「レッスン場で厳しく礼儀作法を教えられて良かった」
と語っておられるのだそうです(「長崎の女たち・第2集」同上)。
愛情の裏打ちのない厳しさに、人はついて来ないものです。
鳳洋子先生は、バレエを愛し、それゆえに厳しさをもって、子どもたちを愛しておられたのかもしれません。

雲・輪

1982年(昭和57年)、将来はバレエスタジオの助手になろうか、大学に進学しようかとぼんやり考えていた少女が、ひょんなことから映画のオーディションを受け、突然、上京することになります。
その少女――当時14歳の知世さんが、本来なら15歳以上という規定である第一次審査・第二次審査を通過したのは、選考した角川春樹さんが、応募写真に偶然いっしょに写っていた姉の貴和子さんに注目したからでした。
2歳でバレエ教室に入門したときもそうでしたが、知世さんは貴和子さんのおかげで、1年早く人生の転機と巡り会っているんですね。
知世さんに付き添ってオーディション会場に同行した貴和子さんは、そこで女優にならないかと勧められます。
貴和子さん、当時16歳。
長崎でバレエ教室をひらくという昔からの夢があるということで断ります。
事実その頃には、高校を卒業したら鳳洋子先生の助手になるということが半ば内定していたようです。

知世さんは特別賞を受賞し、テレビドラマでデビュー。
その1本を撮り終えたら長崎へ帰るつもりが一転、自らの意志で女優を志すことに。
一方、貴和子さんは長崎の高校へ通いながら、バレエに励む日々。
が、小さいクラスの子どもたちを指導するという機会を得たとき、踊ることと教えることの違いに不安を覚えたといいます。
さらに、知世さん主演の映画「愛情物語」に感動し、刺激を受ける。
そうして、上京してバレエを一から勉強し直したいという思いにかられていく。

ところが、それを聞いた鳳洋子先生は、
「出て行くのなら帰ってくるな」
と、一喝したといいます。
「バレエの先生は、この熱い思いを理解しようとはしなかった。」
と、貴和子さんは書かれているのですが(「原石」同上)、
おれは、このとき鳳先生は、貴和子さんの性格も、置かれている状況も、内面の葛藤もじゅうぶんに理解していたような気がしてなりません。
4歳の頃からその成長を見守ってきた愛弟子です。
じゅうぶんに理解しながら、その上で、きつい言葉を投げかけたのではないでしょうか。
鳳先生は、特に貴和子さんに対しては、きつく厳しく叱咤することで、その背中を後押ししていたような気配を感じるのです。

バレエの舞台で、中央でソロで踊りたいと思いながら、いざ直面すると最後のところで一歩引いてしまう。
人を押し退けてまではしゃにむにぶつかろうとしないで逡巡してしまう――。
教室時代、そんな貴和子さんに鳳先生は、
「あなた、そんなことではずっとその他大勢ね」
と言い放ったそうです(「原石」同上)。
冷たく突き放すようでいて、その実、「その他大勢に甘んじていないで、舞台の中央へ一歩を踏み出しなさい」という想いが見え隠れしている。

鳳先生自身もその昔、15歳の頃、熱い情熱にかられて家を飛び出るようにして上京し、バレエの世界へ飛び込んだ人です。
昭和初期の長崎で、少女のそんな無謀ともいえる行動に、家の人が諸手(もろて)をあげて賛成したとは思えません。
これは想像に過ぎませんが、ひょっとしたら、「出て行くのなら帰ってくるな」と、同様の言葉を言われたりしたのではないでしょうか。
上京したては厳しい修行と孤独の中で枕を涙で濡らしていたといいますから、心折れ、故郷へ逃げ帰りたくなる場面も数度となくあったでしょう。
しかしその度に、一人前になるまでは故郷には帰れないという覚悟が支えになったかもしれません。
いざとなると「最後の一歩のところで引いてしまうよう」な性格であるという貴和子さんです。
当時の彼女に必要だったのは、何が何でもという、そうした不退転の覚悟だったでしょう。

どんな時にも弱音を吐くことなく、コツコツとレッスンを重ねる貴和子さんを、鳳先生は見守ってきたはずです。
13歳の発表会で「白鳥の湖」の大役オデット姫を踊る際、高熱を出すというアクシデントにも関わらずステージを演じぬいたという、貴和子さんの内なる根性を、鳳先生は認めていたはずです。
だからこそ、舞台の中央へ踏み出す覚悟と勇気を貴和子さんに求めていたと思うのです。
「出て行くのなら帰ってくるな」
という言葉の裏に、
「逃げ場所はもうないのよ。自分で決めたこと。自分自身で舞台の中央へ強く一歩を踏み出しなさい」
という声が聞こえるような気がします。

1983年2月の雑誌「ボム!」(学研・1983年1月9日発行)に、鳳洋子先生のコメントが小さく載っています。
その中に、
「私としては、貴和子さんと知世さんで、バレエスタジオをついで欲しかったですけどね。」
と、語られています。
これが言葉通りだとすれば、二人の才能を見いだし育てた鳳先生は、当時すでに30数年の歴史を重ねていたスタジオを若い二人に託すつもりだったということになります。
しかし、知世さんは女優へと旅立ち、その3年後には貴和子さんが旅立とうとしている。
もしかしたら、両翼をもがれるような思いがあったのかもしれないという想像もできます。
アナグマなどの野生動物は、子育ての時期が終わると、自立を促すために母親がわざと子どもを攻撃し、巣から旅立たせるという性質を持つことが知られています。
そんな厳しい母親が内面で感じているであろう悲哀と淋しさが、もしかしたら、鳳先生の胸のどこかに一抹あったのではないかという想像もできる気がします。

そうして貴和子さんは1985年、高校を卒業した翌日東京へと旅立ち、バレエへの志しを女優への志しに変えて活動を始めます。
そんな貴和子さんと知世さんの活躍を、鳳洋子先生は長崎から見守り、心から応援していたようです。
TV番組や中継のゲストとして、その凛としたお姿を拝見したことも幾度かありました。

雲1


1992年(平成4年)、鳳バレエスタジオ・第40回発表会。体力の限界を感じたとして、鳳先生は自らの引退を発表します。
(※「長崎の女たち・第2集」には、「1994年(平成4年)」と書かれています。1994年であれば平成6年であるはずですが、おそらくこれは誤植で、上記の通りではないかと思われます。)
鳳先生、75歳。
研究所の開設から41年の歳月が流れていました。
石井漠のように75歳で倒れるまでずっと踊り続けるという生き方もあると思いますが、自分の思うような満足のいく動きが出来なくなったときに身を引くというのも、これは舞踊家としての立派な選択だと思います。
そうして1998年(平成10年)、永眠。
「私には踊る以外何もない」
とおっしゃっていたというその80年の生涯は、「をどるばか」を自称していた師・石井漠のDNAをどこか受け継いでおられたのかもしれません。
バレエを愛し、子どもたちを愛し、そして長崎を愛しておられた。
日々、成長していく子どもたちを見守りながら、
「長崎へ帰ってきてよかった」
と、しみじみ実感されていたのではないでしょうか。

後継者はいらっしゃったのだと思いますが、結局、「鳳バレエスタジオ」という名前を残すかたちにはされなかったようです。
が、そのバレエを愛する心は弟子たちに、そして孫弟子たちに伝えられているのでしょう。
貴和子さん知世さんが路面電車に揺られて通った諏訪神社近くのスタジオは、「愛花バレエ教室(主催:平原愛子さん)」として、今も子どもたちの元気に踊る姿が見られるそうです。




tori-01.gif




2009年(平成21年)10月10日。
知世さんは、故郷長崎で行う“里帰り”的なコンサート・ライブを今までに何度も行って来ましたが、市制施行120周年という節目の年に、さだまさしさんや平原まことさん、綾香さんらと改めて「里帰りコンサート」に参加するそうです。
会場は、稲佐山公園。
奇しくも、鳳洋子先生のお生まれになった稲佐町の近く。
おそらくは、背筋のピーンと伸びたあの姿勢で目を細め、山の上から愛弟子の活躍を見守って下さるに違いありません。



(※当ブログとHP「New Euro Cafe」は、知世さんのプライベートに関わる方たちの名前は、たとえ公表されていたとしても、なるべくイニシャルで書くように努めてきました。が、今回は、あえて鳳洋子さんの実名を書かせていただきました。)





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