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10月21日、原田知世「eyja」、naomi & goro「passagem」リリース。
予約が届いて、聴きながら文章をまとめています。

いいっスね、これ! 両方とも!

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が、こうした最新の話題とはタイミングがずれたまま、当ブログは続くのでした…


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下の写真は、長崎の原爆資料館に展示されているのを撮影させてもらったものです。

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ガラスのかたまり。
溶けたガラスが、再び凝固したもの。
ところが、その中に白い破片のようなものが。
これは、人間の手の骨なんだそうです。
あの日、白い閃光が長崎の空に走ったとき、屋根の瓦さえも溶かされ泡立つほどの高熱が長崎を焼いた。
爆心地付近の地表の温度は3千~4千度といいますから、ガラスはひとたまりもありません。飴のように溶かされた。
たまたまそこへ手をやった人の肉が焼け、骨がそこへ残されたのだということでした。

そのときの熱さはどんなだったでしょうか。
そのときの気持ちはどんなだったでしょうか。
そのときの……たとえば、そのときの様子は、次の文章のようだったかもしれません。
もっとも、これは爆心地から600~800m離れたコンクリートの建物の中にいて生き残ることの出来た方の手記です。

「その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙に吹き飛ばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされていった。
窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。切られるわいと見ているうちに、ちゃりちゃりと右半身が切られてしまった。
右の眼の上と耳あたりが特別大傷らしく、生温かい血が噴いては頸(くび)へ流れ伝わる。痛くはない。
目に見えぬ大きな拳骨が室中を暴れ回る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄兜も、靴も服もなにもかも叩き壊され、投げ飛ばされ、掻き回され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に積み重なってくる。
埃っぽい風がいきなり鼻の奥へ突っ込んできて、息がつまる。」


長い引用になってしまいましたが、これは長崎医科大学で被爆された永井隆さんのいかにも科学者らしい観察眼と、そして表現力に富んだ的確な描写だと思います。
さらにこの「長崎の鐘」(サンパウロ・アルバ文庫)から引用します。

「なにもかも滅茶苦茶だ。
がらくたを踏み越え窓から顔を出してみて、さらにどきっと胸を衝かれた。これは一体どうしたというのだ。
つい今の先まで、この窓の下に紫の浪と連なっていた坂本町、岩川町、浜口町はどこへ消えたのか? 
白く輝く煙をあげていた工場はないではないか? 
あの湧き上がる青葉に埋まっていた稲佐山は赤茶けた岩山と変わっているではないか? 
夏の緑という緑は木の葉、草の葉一枚残らず姿を消しているではないか? 
ああ地球は裸になってしまった!」


その裸になってしまった――というより、裸にされ、傷を穿たれ、えぐり出されてしまった長崎の姿が、原爆資料館にありました。
遺品や写真など、人々の痕跡が。
こうした痕跡さえ残さず、もしかしたら骨さえも残さずに、焦熱と爆圧に消えていった方も多数いらっしゃるのでしょう。

雲2

その災厄をもたらした爆発の中心地、松山町のグラウンド・ゼロの場所へ行きました。
標柱として立てられたこの黒い御影石の上空約500mのところで、爆弾は炸裂したのだそうです。

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再び、永井隆「長崎の鐘」から。

「八月九日午前十一時二分、浦上の中心松山町の上空五百五十メートルの一点に一発のプルトニウム原子爆弾が爆裂し、秒速二千メートルの風圧に比すべき巨大なエネルギーは瞬時にして地上一切の物体を圧し潰し、粉砕し、吹き飛ばし、次いで爆心に発生した真空はこの一切を再び空中高く吸い上げ、投げ落としたのであり、九千度という高熱が一切を焼き焦がし、さらに灼熱の弾体破片は火の玉の雨と降ってたちまち一面の猛火を起こしたのである。
推定三万の人が命を失い、十余万人が重軽の創傷を負い、さらに放射線による原子病患者は数限りなく発生せんとするのである。
空中に生じた爆煙と土煙とは、一時まったく太陽光線をさえぎったため、下界は日蝕のように暗闇となったが、三分もたつと煙の膨張拡散するにともない、その密度が小さくなって、再び太陽の光と熱とをわずかに通過せしめるようになった。」


永井さんが被爆から1年後の1946年に書いたこの本では、死亡者数と負傷者数は上のように記されています。
が、1950年の長崎市原爆資料保存委員会の推定では、死者7万3884人。
さらに1976年、広島・長崎両市が国連に提出した資料によれば、死者推定約7万人。で、ほぼ同じ。しかし、その後の死亡者数を合わせると、1950年12月末までの長崎原爆による死亡者数は10万人に達したと推定されています。
平和祈念館に納められた原爆死没者名簿登録者数は、2009年8月9日現在で、14万9266人だそうです。

また、放射能の影響。白内障、白血病、ガンなど、さらに、まだ医学的には解明されていない諸処の影響。
そのことによる不安ストレスや、PTSDなどなど。
そうした精神的な影響も含め、犠牲者は60年を過ぎた今でもまさしく「数限りなく発生」し続けていると言っていいのではないでしょうか。

けれど、こうした数字のデータに表れないところに、大事な本質があったりするものです。
10万を超える人々のひとりひとりに、それぞれの顔があり、それぞれの名前があり、それぞれの手があり、声があり、泣いたり笑ったりしていた。
何ものにも代えられないそうした生活、人生、生命が、ひとりひとりにあったことを忘れてはならないのでしょう。
たとえば黒木和雄監督が、映画「明日~TOMORROW~」で描いたように、それぞれが、それぞれの生の営みをもっていた。
それぞれが暮らしをもち、家族や友だちやパートナーをもち、思い出をもち、そしてどんな可能性をも秘めた“明日”をそれぞれ、ひとりひとりが抱えていた。
――まだおくるみの中の赤ちゃん。たくましそうな、けれどやさしそうなお母さん。すました青年。はにかむ女の子。いかにも実直そうな男性。深いしわを刻んだおばあさん……。
平和祈念館の一室で、犠牲者となった方々の写真が次々に映し出されるコーナーがありました。10万を超える方々すべてを映すには何時間かかるのでしょうか。
そのひとりひとりの顔。いのち。明日。
しばし言葉を発することもできず、立ちつくしてしまいました。


爆心地には、御影石の標柱の隣りに、爆撃で倒壊した浦上天主堂の辛うじて残った側壁の一部が移設されて建っていました。

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爆心地から、約500m。
下は、再建された現在の浦上天主堂です。
再建するにあたっては、平和への祈りも込められていたことでしょう、赤レンガの美しい建物です。

ちなみに、知世さんは岩屋中学1年生のとき、スケッチ大会でこの浦上天主堂を描き、入賞したことがあるそうです。
1980年、当時のローマ法皇ヨハネ・パウロ二世が来日されるのを機に、外装を被爆前の旧・天主堂を思わせる赤レンガに、窓をすべてステンドグラスにするという改装工事が行われました。
知世さんが描いたのは、10月に改装を終えた新ピカの天主堂だったかもしれません。

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美しい建物ですが、敷地のそこここには、風化されることを抗う証言者のように、原爆の爪痕が残されています。
下の聖人像は、首が取れていたり、顔の一部や手が欠けたり、黒く変色したまま、被爆の跡を残しています。
それゆえに尊く感じられるような気もします。

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被爆前の旧・天主堂は、私財をなげうち刻苦して働いたフレノ神父と浦上の貧しい人々が、レンガ1枚、石ひとつを買うのにも苦労しながら、20年をかけて作りあげたものだったといいます。
それは東洋一を誇るものでしたが、鐘をならす鐘楼がない。
そこで、聖堂正面に高さ25mの双塔を建てて加え、1925年(大正14年)にやっと完成。明治の着工以来、30年が過ぎていました。
爆心地に移転した側壁は、その一部だったんですね。

双塔は、右の鐘楼には大きな鐘を、左の鐘楼には小さな鐘をつり下げていました。
いわゆるアンゼラスの鐘。
アンゼラス(angelus)はラテン語で、神の御使い、天使のことをいうそうです。
その天使がキリストの受肉を告げたことから、それを記念して信者は「お告げの祈り」を毎日捧げる。
そこから毎日の「お告げの祈り」をアンゼラスといい、「祈り」の意味にもなった。
その際に鳴らす鐘を「アンゼラスの鐘」といったそうです。
大きい方の鐘はその毎日のお告げの祈りの鐘として鳴らし、祝日になると小さい方もいっしょに鳴らしたのだとか。
鐘はフランス製で、特に小さな方の鐘は、「うっとりするような好い音を響かせた」(永井隆「ロザリオの鎖」サンパウロ・アルバ文庫)といいます。

ところが原爆は、アンゼラス(祈り)を嘲笑うかのように、30年、爪に火を灯して作られた天主堂を一瞬にして崩壊せしめます。
双塔の左側の鐘楼が倒壊して転げ落ちたのが、下の写真。
当時、ここに流れていた川をせき止めていたそうで、そのままの残骸の姿が残されています。

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ここにつり下げられていた小さな鐘は破壊されましたが、もう一方の大きな鐘は25mから落下したにも関わらず、レンガの瓦礫の中に無傷で残されていた。
(永井隆さんの前出・「ロザリオの鎖」には、大きい方の鐘が壊れていたと書かれていますが、浦上天主堂のサイトでは、小さい方の鐘が壊れていたとあります。おそらく永井さんが勘違いをされたのではないでしょうか。)

原爆落下より4ヶ月ほどたった1945(昭和20)年の12月24日、クリスマス・イブの午後。
レンガの瓦礫の山に丸太を渡しただけの急ごしらえの“鐘楼”でしたが、そこに生き残った鐘をチェーンブロックで引き上げ、鳴らしたときのことを永井隆さんが綴っています(前出「ロザリオの鎖」)。
それは、まだ荒れ果てていた原子野の中、バラックの仮住まいで飢えと寒さにふるえ、放射能汚染による症状にあえいでいた人々が待ち望んでいた音色であったでしょう。
まさにアンゼラス(祈り)の響きであり、その「祈り」は平和への祈りでもあったに違いありません。
おれはこの日、聞くことは出来ませんでしたが、アンゼラスの鐘は新・天主堂の右の鐘楼にあり、今でも現役でその音(ね)を長崎の空に響かせているのだそうです。

雲1

爆心地から約800m離れた山王神社にも爪痕が残されていました。
神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まで、4基の鳥居があったそうです。
が、原爆によって2基が倒壊。
辛うじて残った二の鳥居は、爆心地側の左半分が壊され、それでも奇跡的にバランスを保ち、一本の柱の姿で今も立っています。
半分に欠けた笠石(=左右二本の柱を連結し、水平にわたされた二本のうちの上にある石)は爆風のためにややねじ曲げられています。
一の鳥居はほぼ原型のまま残りましたが、戦後交通事故によって倒壊し、今残っているのはこの二の鳥居だけになったのだそうです。
(参考:山王神社のサイト

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破壊された左半分の笠石や、「山王大神宮」と彫られた額束(がくづか)の残された破片が、かたわらの参道に置かれていました。

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永井隆さんが被爆した長崎医科大学(爆心地から約600~800m)にもまた、爪痕が刻まれていました。
当時、正門にあった大きな門柱は、10センチほどずれ、傾いています。
その石版には、
「1945年8月9日、よく晴れし日の午前11時2分、世界第二発目の原子爆弾により、一瞬にして、わが師、わが友、850有余が死に果てし、長崎医科大学の正門門柱にて、被爆当時のままの状態を生々しく此処に見る」
と記されていました。

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医科大学は、ほぼ全壊全焼の壊滅的被害を被り、角尾学長をはじめ、教官、職員、学生、看護師ら896名、さらに居合わせた患者も犠牲に。
生き残った医師や看護師は、爆撃を受けたその日から、灰と瓦礫の中で救護活動を始めたそうです。
永井隆さんも医師として、自身の頸動脈の負傷と出血をおして、途中昏倒しながらも救護班を組織して活動を続けます。
滑石(なめし)では調来助(しらべらいすけ)さんが、浦上第一病院では秋月辰一郎さんらの医師たちが救護にあたったそうです。
が、薬品も医療器具も瓦礫の下。包帯すらも満足にない徒手空拳の状態で、自身も放射能に冒され、患者は次々に死んで行く。
そうした無力感にさいなまれながら、時に涙を流し続けながら、時に励まし合いながら、時にはみんなで笑い合い、ユーモアさえまじえながら、活動を続けたようすが「長崎の鐘」に記されています。
そうした医師たちの存在は、人々にとって、どんなに救いであったろうかと思います。

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「75年生息不可能説」
というのが、落下直後からあったそうです。
75年とも70年ともいわれるのですが、その間、原爆の焼け跡には草木が生えず、生き物は住めないというのです。
ニュースソースがどこかわからないのですが、広島でも長崎でもこの説が伝えられ、新聞でも取り上げられたため、まことしやかに信じられた。
今でも、焦土と化した当時の町の写真を見れば、この説に思わず納得してしまいそうになります。
見渡す限りの瓦礫に埋め尽くされたその場所に、しかも放射能に汚染されているというその場所に、植物が生育するとはとても思えない。動物が生きていけるとはとても思えない。

けれど、生えたのだそうです。
まず草が芽吹いた。

知世さんのお父上である原田左斗志さんの俳句作品に、次の句があります(句集「葡萄群その後」俳句界叢書第七巻・文學の森より)。

はや芽吹く力爆心碑の大地

長崎在住でいらっしゃる作者にとって、爆心地公園は身近な場所かもしれません。
おそらくこれは早春――まだ春は遠いと思われるような寒さのつのる季節だと思われます。
ところが公園には早々ともう草の芽が生え出している。
そこに作者は、自然の(もしかしたら超自然の)大地の力(ちから)を感じている。
それはまた、原爆に傷めつけられた長崎の、それでも負けまいとする力であり、そうした長崎の人々の歴史と現在が重ねられているように思います。

その力は、落下直後にも生きていた。

爆心地から700m離れた山里小学校(当時は山里国民学校)の中に原爆資料室の建物があります。
おれが訪ねたときは、ちょうど山里小の子どもたちがせっせと掃除をしていました。たぶん毎日せっせとしているのでしょう。
その室の受付と管理は、毎日地元のボランティアの方がやっていらっしゃるそうで、そのおじさんに話を聞くと、ご自身が被爆されたのは3歳のとき。
落下当時のことはあまり覚えてないそうですが、いろいろ話してくれました。
その話によると、直後から植物は生えてきたと聞いているそうです。

永井隆さんの著作(「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」)にくわしい叙述がありました。
それによると、「町並みのなくなったのっぺらぼうの丘」に、わらびが芽を出した。
これは稲佐山のわらびの胞子が爆風にあおられてここへ降ってきたものだろうと永井さんは推理しています。
そして麦も発芽。
これは、各家々にたくわえてあった麦のもみが降ったのではないかといいます。
やがて、廃墟の中の畑のすみに、朝顔の花が。
もっとも葉には奇形が見られたそうですが、しかしその花の色は心に染みるものだったようです。
三週間後、爆心地の松山町に、元気なアリの群れ。
1ヶ月後、ミミズがたくさん。
イモの葉を食う虫たち。
ドブネズミの走る姿。
発芽したトウモロコシは冬に結実し、けれど粒にはならなかったそうです。
サツマイモも、ツルや葉は伸びたものの、イモの塊根はなかったそうです。
しかし、緑は復活していった。

爆心地から500m離れた城山小学校(当時は城山国民学校)に、「二股クス」と呼ばれるクスノキを見てきました。
あたりの樹木はほとんどなぎ倒され、壊滅状態。
クスノキも倒されましたが、その両側から2本、二世の兄弟のクスノキが奇跡的に芽吹いたのだそうです。
今では見上げるほどにすっかり成長し、隆々と誇らしげです。

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近くに被爆したカラスザンショウがありました。
もう瀕死の状態で、隣りのムクの木に寄りかかっていました。
自慢のトゲのある表皮もむけて黒く変色していましたが、それでも60年を経た今も、ムクの木に助けられながら、何とか生き残っているのだそうです。

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その手前に、カラスザンショウの二世が、トゲトゲもたくましく元気に成長していました。
と思ってふと見ると、カラスザンショウを食草とするアゲハの一種でしょう、10数匹の幼虫の軍団が二世にはりついて、一心不乱に葉を食べていました。
食べつ、食べられつ。――これもまた生の営みですね。

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永井隆さんの遺されたエッセイに「あげはちょうの羽」と題された文章があります(「如己堂随筆」サンパウロ・アルバ文庫・所収)。
まだ原爆が投下される前の戦時中、東京のとある原子物理学の研究室。
予算も削られ、わずかな量しかなかったラジウムでは本格的な研究もままならず、アゲハチョウのさなぎに一定時間、放射線の一種であるガンマ線を当てるというような実験しか出来なかった。
が、影響はあらわれ、成虫となったチョウの翅(はね)は縮んだように形が変わり、茶色く変色していたそうです。
たまたま研究室を訪れ、その標本を目にした永井さんは、
「なぜかしら日本の行く末をふと連想して、あわてて首を強く振った。」
と書き記しています。

放射線医学の研究のために放射能に冒され白血病となり、原爆の投下前にすでに余命何年と宣告されていた永井さんには他人事ではなかったでしょう。
そして投下後は、救護活動中、看取り絶命した患者さんの中には、放射線障害が原因の方も数多くいらっしゃったはずで、その影響をまざまざと実感されていたと思います。

歴史に「if(もしも)」はないといいますが、“もしも”、日本が原子物理の研究に莫大な予算を投じていたらどうなっていたでしょうか?
研究水準はけっして劣るものではなかったという物理学会は、アメリカやドイツより先に原子爆弾を開発出来ていたかもしれません。
そのとき、アメリカ市民を鬼畜と呼んでいた日本は、彼らの絶大な被害を慮(おもんばか)って投下をためらったでしょうか?
雲の下に生活しているだろう、10万人20万人のひとりひとりの生命を想像して、投下スイッチのレバーを引かなかったでしょうか?
もしかしたら、日本が加害者になっていたかもしれない。
そして原子爆弾を持たなかったとしても、日本は、中国やアジアで大いなる加害者でした。

今、カラスザンショウの葉を無心に食べている幼虫たちは、茶色く縮んだ翅をもったアゲハチョウにはならないであろうと思います。
世界中にいるアゲハチョウが、これからも茶色く縮んだ翅にならないことを祈りたいと思います。


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上の写真は、原爆資料館近くに建てられていた像。
じょうろで水を注ぐ少女の足下には、「反核・平和 はぐくむ」と記されていました。
「子ども達の健やかな成長と核のない平和な世界を育てたい」という願いが込められているのだそうです。
“育てる”というこの姿が、ここ長崎にぴったりのような気がしました。
長崎の人々は、復興の努力を重ねて町を育て、緑を育て、そして平和を求める心を育ててきたんですね。

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城山小学校の校庭の端から桜の木が、休み時間、遊びに夢中な子どもたちの姿を見守っていました。
「嘉代子ざくら」と呼ばれる桜たちです。

あの諏訪神社近くの桜馬場町に住んでいた林嘉代子さんは、当時市立高等女学校に通う4年生。
8月11日の誕生日が来れば16歳になるはずでした。
その2日前、8月9日。
朝、いつものように友だちが迎えに来ると、嘉代子さんは、体調が悪かったのでしょうか、
「今日は先に行っとってちょうだい」
と言い、いったんは休むつもりだった。が、思い直して母親の林津恵さんに「いってきます」をいい、先へ行った友だちを追って路面電車へ。
当時女学生たちは、女学校ではなく、学徒動員として働くために三菱兵器製作所の茂里町工場へ通っていたのだそうです。
それが10日ほど前、給与課が移転したため、嘉代子さんたちのグループは、三階が作業所となっていた城山国民学校(現在の城山小学校)へ通って行った。
そこへ原爆が落ちたのです。

その日、娘の帰りを待ち続けた母親の津恵さんは、翌朝城山へ向かいます。
落下当時、夏休み中の鉄筋コンクリートの学校にいた職員32名、三菱兵器の職員と動員学徒158名のうち、生存者は20名だったといいますから、現場は悲惨を極めていたでしょう。
まだ燃え残る火をくぐり、兵隊の制止をふりきって、もはや誰のものだかわからなくなった遺体をひとつひとつ、歯並びだけをたよりに探したそうです。
2日、3日、4日……。校内のみならず、学校の周辺や防空壕を毎日探し歩く。
15日目、肩幅や歯並びの似た遺体をいったんは荼毘に付しますが、気がかりが胸に残り、再びまた探し続ける。
そうして21日目の夕方、父親の林潤さんとともに学校の三階へのぼったところ、遺体が2体ありました。
その1体は足の方がなくなっていましたが、津恵さんは一目見るなり、
「あ。うちの子どもだ」
と思ったそうです。
頭骨の上部は崩れずにあり、奇跡的に焼けずに残っていた防災ずきんの切れ端にお守りと遺言が残っていたそうです。
「もしもお母さんが先に死んだら、ここをほどいて見なさいよ」
と、縫い込んでおいた遺言。
両親が突然死んでしまうことを想定しておかなければならなかった時代。
嘉代子さんが一人で生きていかねばならなくなった場合に備え、どう生活していったらいいかといったことを事細かに津恵さんがしたためていたものでした。
「親を残しては死なない」
と常々言っていたという嘉代子さんは、しかしこうしたかたちで両親と再会を果たしたのでした。
津恵さんは、放射能に汚染された現場を連日歩き回ったせいでしょう、髪がぬけ、皮膚に斑点が出て、原爆症に苦しんだそうです。

それから4年後の1949年。
「何か手向(たむ)けの花を植えましょう」
と考えた津恵さんは、嘉代子さんが好きだった桜を贈ることに決め、学校と相談し、
「死んでいった女学生たちの魂がきっと立派に育ててくれる」
と念じながら、苗木を植えたそうです。
が、50本あった桜も、樹齢と病気のため、今は6本に。
おれが訪ねたときには元気そうに見えましたが、台風にやられて樹医のお世話になったりしたのだそうです。
そこで、植樹活動のための寄金を募ったところ、目標を予想外に上回ったため、縁(ゆかり)の地5カ所に新たに植樹することを決め、
元は嘉代子さんが通っていた長崎市立高等女学校である今は桜馬場中学校に、2009年の今年2月、植樹をしたということです。

1988年、林津恵さん、永眠。
寄贈された遺産で、平和の鐘のモニュメントが作られたそうなのですが、おれはこの日、見ることが出来ませんでした。

ちなみに、1985年、黒木和雄監督が日本とポーランドの合作ドキュメンタリー「かよこ桜の咲く日」を制作され、津恵さんがお元気な姿でインタビューに答えておられるそうです。

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その城山小学校の林に、こんな看板が立っていました。

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子どもたちに虫を殺させないという教育のやり方には、おれはちょっと異論があります。
30代40代以上の人間だったら、子どもの頃、
捕まえたカエルの皮をむいてザリガニの餌にしたり、
捕まえたバッタの腹に爆竹を仕掛けたり、
瀕死のセミを猫に捕まえさせておもしろがったり、というような経験をした思い出はないでしょうか?
(……え? おれだけ?)

子どもというのは残酷な生きものです。
なぜなら、人間という生きものが残酷なものだからです。
その自分のもっている残酷さと向き合い、意識しないうちから、親や教師が残酷さを禁じて遠ざけ、無菌状態で成長させるのは、いい傾向とは思われません。
抑圧された残酷さの本能は、かたちを変えて噴き出してくることがあります。
あるいは成長した後に、歪んだかたちであらわれることもあります。
虫や小動物に残酷な仕打ちをした子どもは、やがて自分の残酷さを自覚していきます。
自分の残酷さを認め、コントロールしていくところに成長がある。……ように思うのですが。

が、しかし、この場所に書かれた看板には納得してしまいました。
いわば、ここは聖地。
犠牲者の方々の魂が眠るその場所で、無益な殺生をしたくない、させたくないというのは当然だと思います。
そして、セミやコオロギやウマオイやカネタタキたちが空襲や爆音に脅えることなく無心に鳴くことの出来る平和な時代(ふだん、おれたちは意識していませんが)。
その平和な声を、眠っている魂たちに伝え続けたいという想いも、ジワ~ッと理解出来る気がします。
こういうのって、子どもたちに伝わるんだろうな。

けれどもしかし!
ここへ空き缶やビンやビニール袋まで(捨てていく人がいるんだそうです)捨てて帰るという観光客が信じられません。
同じ観光客として、ほんとに情けなく恥ずかしく悲しい気持ちでした。

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上の写真は、銭座町の聖徳寺(爆心地から約2km)の下にある“原爆柳”といわれる柳です。
もっとも、その柳は1984年に枯れてしまい、これは新たに植樹された二代目。
落下当日の午後、医療救助隊の第一陣が駆けつけてきましたが、一帯が火の海で、ここより先に進めなかったのだそうです。
そこでやむなく、この場所から救護活動を始めた。
遺体を収容したのもこのあたりで、多くのご遺体が野外火葬されたそうです。
やはりここも悲惨を極めていたのでしょう。

ちなみに聖徳寺は、いわゆる「浦上四番崩れ」の発端となったところですね。
幕末の条約以降、外国人宣教師の来日は許されたものの、キリシタンの弾圧は変わらず、明治政府に替わっても続けられました。
浦上のかくれキリシタンの人々は、来日したプチジャン神父らと秘密裏に連絡を取り合い、次第に大胆になっていく。
そして大政奉還前夜の1867年。死亡するとそれまでは仏教徒を装って檀那寺である聖徳寺で葬っていたのを、頼まずに自葬したことから、キリシタンであることが発覚。
大弾圧へとつながっていきます。

ここはまた、遠藤周作「女の一生~一部・キクの場合~」(新潮文庫)の舞台でもありました。
幕末の頃は、周辺一帯が海だったそうで、丘の上の聖徳寺は、長崎の海を見渡せる絶景のロケーションの場所だったようです。
「女の一生」では、
「もっとも現在では、車やトラックの錯綜する味気ない国道だが」
と描写されています。
海の見える丘に比べれば確かにそうかもしれませんが、おれは、まあまあふつうの町の風景で、別に味気なくはないかなという感想です。

ちょっと歩くと、観覧車のあるココウォークというショッピングモールでした。
そこは昔「福田の遊園地」として親しまれた長崎遊園地だったそうですね。

雲・輪

そして下の写真は、あの一本足の鳥居のある山王神社の境内にある大クスです。

近くの説明板に被爆当時の写真がありました。
遠く稲佐山を望む一面の瓦礫の焼け野原に、ぽつんと2本、焼けこげて上部が失われたために背の低い灌木状態となって枯れ果てた木の姿。
枝葉はもちろん、幹まで3分の1以上をやられていたため、このまま死にゆくのだろうと誰もが思っていた、そのおよそ2年後。
緑の新芽が吹いたのだそうです。
町の人たちは木の幹に抱きついて喜び合ったのだとか。
やがて健康を取り戻し、葉を繁らせ、枝を四方へ伸ばし、黒く炭化した部分を残しながらも、60年以上たった今、2本ともこんなに立派な巨木に成長していました。
今、幹の方ではシロアリによる食害も心配されているそうですが、おれが訪ねたときには、「まだまだ負けんぞ」という気迫みたいなたたずまいを感じさせてくれていました。

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1996年、環境省(当時は環境庁)が、公募し、選んだ「残したい“日本の音風景100選”」に、「地域の人々と共に生きる木と風のささやき」として、この「山王神社被爆の楠の木」が入っているんだそうです。
隣りに保育園がありました。子どもたちはこの二本の兄弟の木に、毎日見守られているのでしょう。
その子どもたちのいかにも元気そうな声は聞こえていましたが、
この日は、そよりとも風のない日で、葉ずれのささやきは聞こえませんでした。
しかし、ずっと見ていると、その傷ついた、けれど触ると心地よい、たくましい樹皮のうねりの奥から、何か鼓動のような音が聞こえて来るような気もしました。
それは負の歴史をも乗り越え歩んできた長崎という土地の力の鼓動であったかもしれません。

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この日は長崎をぶらり……とはいかず、ちょっとばかりせかせか、遺構を訪ねて歩きました。
知世さんたち長崎っ子には日常的なごく当たり前の風景も、旅人には驚きだったりするものです。
旅の前に東京で下調べみたいなことは多少してきたつもりでした。
けれど同じ資料を見たとしても、東京の机の上で単なる情報や知識としてながめるのと、実際の場所で人に話を聞き、風や匂いを感じながら「ああ、ここでそういうことがあったんだ」という感慨とともにつくづくながめるのとでは、天と地の差がありました。

映画「となり町戦争」の“香西さん”に扮した知世さんは言いました。

「あなたはこの戦争の姿が見えないと言っていましたね。もちろん見えないものを見ることはできません。しかし感じることはできます。どうぞ、戦争の音を、光を、気配を、感じ取って下さい」

今という時代、リアルをとらえにくい。
現在行われている戦争のリアルも、未来の戦争のリアルも、そして過去に行われた戦争のリアルさえ、非常に見えにくくなっていると思います。
原作者・三崎亜記さんはその小説「となり町戦争」でこう書きました(参照:http://porepore4989.blog68.fc2.com/blog-entry-18.html)。

「僕たちが戦争に反対できるかどうかの分岐点は、この『戦争に関する底知れない恐怖』を自分のものとして肌で知り、それを自分の言葉として語ることができるかどうかではないかと。
スクリーンの向こうで起こっているのではない、現実の戦争の音を、光を、痛みを、気配を感じることができるかどうか。」


おれは、自分の言葉で語ることが出来ているかどうかはわかりません。
また、高熱で灼かれて肌がべろべろにむけ、爆圧に打たれて耳や鼻から血を流し、口から血泡を吐いて絶命した方々。負傷した方々。
放射能のために病いを得て、今もまだ苦しみ続けておられる方々。
もしかしたら心の底に痛みを抱え続けておられる方々……。
そうした方たちの痛みの、百分の一、千分の一でも、おまえは感じることが出来たのかと問われれば、yesとはとうてい言えません。
が、しかし、その声を、その気配を、多少とも感じることが出来たのは確かだと思うのです。

爆心地公園に、その下の地層が見られるコーナーが作られています。
落下当時の焼けこげた土や、破砕された瓦、レンガ、そうした積み重なった瓦礫の中に、ビンや茶碗など、当時住民が日常で使っていたであろう雑貨の破片が生々しく見えていました。
人々はそこで生きて、生活をしていたのです。
そうした焼け跡の上に、きれいな公園が作られている。
ひょっとしたらまだ白骨が眠っているかもしれないそうした瓦礫や土の上に、町があり、長崎があり、
そうした歴史の積み重ねの上に今の平和な日本があるということが、今さらながらに感じられた気がします。
そんなふうに当時の気配をリアルに伝える痕跡は、長崎の町のあちらこちらに大切に残されていました。
おれのような無知な観光客に、そしてたぶん、これからを生きる子どもたちへ伝えるため。


「天国にいちばん近い島」の台詞風に言うとこうなるでしょうか。

――見つけました。
リアルはここにあります。







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10月9日のその日、オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞することが決まったというニュースを知ったのは、夕方入った宿のフロント前にあったテレビででした。
「まだ実績を示せていない」「時期尚早」という否定の声もなかなか多いようです。
が、おれはこのニュースを聞いて宿の部屋に腰を下ろしたとき、ビートルズの「Carry That Weight」という曲が聴こえてくるような気がしました。

国民の約61%が「原爆は、戦争を早い終結に導いた正しい行為である」と考え(→参照ニュース記事)、
核保有数世界ナンバー・ワンであり、ロシアと合わせると全世界の核の96%を握っているという国。
その国のトップが、核廃絶の方向へ舵をきろうとしているのです。
ノーベル賞選考委員は、そのことを認めて賛意を示し、エールを送るとともに、彼に託した――いわば彼に課題を背負わせたのではないでしょうか。
「核による抑止」こそが安全を保障をするのだとする意見が根強く、また、ノーベル賞に対する意識が低く、核よりもエコよりも、経済の利益と安定を望むという国内世論を抱える彼にとって、課題は重い荷物であるに違いありません。
が、彼は突然の受賞に驚き当惑しながらも、この重い荷物を背負うことを自ら選択したかに見えます。
「平和」賞に値するか否かは、彼のこれからにかかっているのでしょう。

Boy, you're gonna carry that weight
Carry that weight, a long time
Boy, you're gonna carry that weight
Carry that weight, a long time

(さあ。おまえがその重荷を背負うんだ。
その重荷を背負うんだ。これからの道のりをずっと。
ボーイ、おまえがその重荷を背負うんだ。
その重荷を背負うんだ。長い道のりをずっと。)
(~The Beatles「Carry That Weight」より)

そしてもしかしたら、地球を数回破壊することの可能な核の数を人類が手にしているというこの時代に生まれたおれたちはみんな、何かしら、“平和の希求”というこの課題を背負う必要に迫られているのかもしれません。
長崎の街の風景を思い出しながら、ことさらに「Carry That Weight」のメロディが高鳴ってくるような気がするのでした。





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