えーと、いわゆる、なんていうか、O3(オースリー)な日々。

原田知世さん(=O3《オースリー》)にまつわる事どもを、 ミーハーなファンが書き散らかしています。

鳳洋子先生のこと その3

当ブログは、パソコンの調子やおれの生活が変調をきたしたりするたびに
たびたび勝手に休んでおりまして、そのあいだにも、
鳳洋子先生の記事を読んでいただいた方からコメントをいただきました。
その前にもいただいていて、
舞原美保子さん。emiko_bongさん。鳳先生のご親戚の方。kiyozouさん。
改めて、コメントありがとうございます。

コメントを読み、改めて先生が播かれた種が、脈々と育っていること、
また、先生のお仕事のその大きさを実感しています。

雲・輪

舞原美保子さんからコメントをいただいたとき、お電話を下さり、
こんなエピソードを話して下さいました。

美保子さんが教える立場となって、教室で子どもたちの指導を始めた頃だったそうです。
バレエのレッスンには、全身の姿勢を確認することの出来る大きな鏡が効果的だそうで、
レッスン場ではよく見かけますね。
鳳教室にも、保護者の方々が寄贈してくれた大きな鏡があったそうです。
ところがある時、子どもをかばって美保子さんが鏡を割ってしまう。
やむを得ぬ状況とはいえ、保護者の方々がみんなで出し合って購入してくれた、
当時はそう安くはない鏡を割ってしまったことに、美保子さんは悄然としたそうです。
そのことを、鳳先生に電話で伝えた。
日頃、厳格な先生のことですから、美保子さんの胸には、
どんな叱責も受ける覚悟があったかもしれません。
そうしてたぶん緊張していた電話口の美保子さんに、先生は言ったそうです。

――「けががなくて、よかったわね」

その言葉はしみじみとやさしかったそうで、
今でも忘れられないと美保子さんはおっしゃっていました。
もっとも、先生が、破損のことより、まず教え子の心配をするであろう方であるのは、
誰より美保子さん自身がご存知だったかもしれません。

昔、中国の孔子の馬屋(厩)が火事になり、可愛がっていた愛馬が焼け死ぬ。
さぞ怒りを買うであろうと心配しながら家人が報告すると、子いわく、
「みんなにケガはなかったか。そうか、それはよかった」
と、家人を気づかい、それっきりだったそうです。
これは、落語の「厩火事」でも知られている話。
鳳先生は、孔子だったんですね。

雲・輪

ところで、黒柳徹子さんのベストセラー「窓際のトットちゃん」に、
鳳洋子先生の師である石井漠さんが登場していたことを思い出したので、
ここにちょっと記しておきます。

トットちゃんこと黒柳徹子さんが子どもの頃。
父親のヴァイオリニスト黒柳守綱さんがソロを弾いた「白鳥の湖」公演を
日比谷公会堂へ観に行き、感激したトットちゃんはバレリーナを目指します。
そこで彼女が当時通っていたトモエ学園の校長・小林宗作先生の友人であり、
学園にリトミックを教えに来ていた先生に教えてもらうことになります。

勇んでダンススタジオに行ったトットちゃんが見たのは、
「お山は晴天」と言いながら、山を散歩するそんな気分でぶらぶら歩き、
突然「ポーズ!」のかけ声に、思い思いの自由なポーズをとって表現する、
というような創作ダンスだったそうです。
小さな子には、何より自由に踊る楽しさを教えたかったのでしょう。
真っ白なチュチュを着て白鳥を踊りたいと夢見ていたトットちゃんは当てが外れ、
次第にスタジオに行かなくなり、バレリーナの夢をあきらめます。
が、自由に表現する楽しさは、トットちゃんに確かに伝わっていたのだと思います。

その先生が、石井漠さん。
「男だけど、頭の毛の前髪を、おかっぱのように切っていて、毛も少し、
ちぢれていた。」
「鼻も高く、目も大きく、立派な顔…」と描写されています。

フランスのジャック・ダルクローズ(彼はスイス人)創案のリトミックは、
作曲家・山田耕筰、新劇の小山内薫、幼児教育の倉橋惣三らに影響を与えました。
そんなダルクローズにパリで直接教えを受けた小林宗作さんが、
帰国して作ったのがトモエ学園です。
そんな先生とともに、リトミック運動の一翼を担っていたのが、
石井漠さんだったというわけです。

「当時五十歳」と、「窓際のトットちゃん」には書かれていますが、
1886年生まれの石井漠さんが50歳だとすると、
上述のエピソードは1936(昭和11)年のことになります。
けれど、トモエ学園が創立されるのは翌1937(昭和12)年で、
トットちゃんが通うようになるのはその後なので、たぶん勘違いでしょう。
おそらく「五十代」の間違いかもしれません。

中学3年生で中退して単身上京し、石井漠さんの内弟子となっていた鳳洋子先生は、
トモエ学園が創立された1937(昭和12)年、4年の修行を認められて
「石井」姓を与えられ、石井洋子として活躍します。

そしてトットちゃん──黒柳徹子さんが小学校へ入学してから数ヶ月後、
退学を告げられてトモエ学園へ転校するのが、1939(昭和14)年。
ちょうどこの年に、当時22歳の鳳洋子先生は、石井漠さんの元から独立しています。
鳳先生は、ちょうど徹子さんとは入れ替わるかたちで、
自由が丘の地から離れているんですね。

その2年後の1941(昭和16)年に、太平洋戦争が勃発。
戦争前夜という暗い時代でしたが、それでも当時の自由が丘には、
そこだけ薄日が差してきらめくように、
厳しくも自由な芸術を愛する空気があったのかもしれません。

その気風は、鳳洋子先生のバレエの中にもきっと流れていたのだと思います。



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※鳳洋子先生の後継者のおひとりである愛花バレエ教室の平原愛子さんが、鳳OGの会のフェイスブックをされています。
Facebook「鳳会」

ブログは、こちら。
「愛花バレエ教室日記〜座右の銘は能天気(^o^)明るく楽しく・・・美しくいきましょう〜」





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