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「プリンス&プリンセス」~シルエット・ロマンス

category: movie  

昔話というのは、だいたいにおいて細かい描写というのをしないようです。
たとえば、お姫様が登場するとする。
もしも、小説なら(まあ、そんな小説があったとしたらの話しですが)、

「ロココ調のレースのあしらいも花飾りもない、まったくシンプルなドレスでしたが、その白さは、彼女の抜けるような肌の白さと、そして黒い髪とバラ色の唇をいっそう引き立てて……」

などと描写するかもしれません。
が、昔話では、たとえば、

「今まで見たこともないような美しいお姫様が立っていました」

としか言いません。
具体的には語られないために、聞き手は各々自分の心の中に想像を思い浮かべることになります。
ある人は、ほっそり型の女性を思い浮かべ、ある人は、ぽっちゃり型の女性を思い浮かべる。
ある人は、オードリー・ヘプバーンを思い浮かべ、ある人は、山田花子さんを思い浮かべる。
どんな服を着て、どんな肌をして、どんな姿形をしているかは、聞き手の想像力に任せられているわけです。
そして語り手は、間をとったりすることによって、聞き手が想像を働かせるように仕向けたりもします。
昔話は、自然に想像を働かせるようなシステムになっているんですね。
だから、昔話を絵本やアニメなどの映像にするということは、聞き手の想像力を奪ってしまうことでもあります。
聞き手が自分なりのお姫様像を思い浮かべようとする前に、どんな色のどんなドレスを着て、どんな目のどんな鼻をしたお姫様か、その具体的な姿が目に飛び込んでくるわけです。
そのため、語りのメディアである昔話を映像化することに反対する人たちもいます。
たとえ反対はしないまでも、昔話を映像化するときは、そうしたメディアの特性に考慮しなければならない、というのが多くの見解の一致するところでしょう。

昔話の研究家のマックス・リューティは、また、昔話の特徴のひとつとして、登場人物は図形的、二次元的であるといいます。
(リューティは、ヨーロッパの昔話に言及しているのですが、日本や世界の昔話にも共通する特徴ではないかと言われています。)
たとえば、ヨーロッパでも日本でも語り伝えられている「手なし娘」という話。
この話の主人公の娘は、両腕を切り落とされます。
しかし、昔話では、ドクドク血が出たの、腕が転がっただの、顔が蒼白になり思わず目をつぶったのというように、シーンをくどくど描写することはありません。
そのために、娘はちょうど折り紙や切り紙細工、あるいは平面的なブロックの図形が切り離されるように、ただ腕を切り落とされることになります。
こうした二次元性があるために、聞き手は物語を現実にあった話としてではなく、象徴的な話として受け取るようになるのだというのです。

ならば、昔話を映像化するときには、いっそ登場人物を図形にしたらどうだろう?
と、考えたのか考えなかったのかはわかりませんが、ジャン・アッシュという人が、シンデレラをまったくの図形で表現して絵本を描いています(「丸と四角の世界──シンデレラと赤ずきんちゃん」クリスチーヌ・ユエ訳、さ・え・ら書房)。
この絵本では、シンデレラも継母も魔法使いも王子様も、丸や四角や三角の図形となって登場します。
試みとしてはおもしろいのですが、しかし、これはどうも子どもたちの受けが悪い。
ここまで抽象化されていると、ストーリーがたどりにくい。子どもたちは、絵本の絵には具体性を求めるんですね。

そこで、シルエットなわけです。
影という具体的なかたちで、しかもシンボリックで、見る側の想像力をかきたてる。
昔話を映像にするときにはピッタリじゃないでしょうか。
しかし、影絵の昔話絵本は意外と少ない。
明治44年から大正初期に刊行された絵本のシリーズに「日本一ノ画噺」(1978年にほるぷ出版が復刻)というのがあります。
児童文学作家であり、昔話の口演などでも知られた巌谷小波も執筆者のひとりとして参加しているこのシリーズは、全編の絵がシルエット。
このシルエットの表現は、

「明確なわりに想像をよびおこす効果がありました」(瀬田貞二「落穂ひろい」福音館書店)

「本来的に自由な想像を許す絵であり、『日本一ノ画噺』の小さな判型の中の意外な大きな解放感は絵を見て物語を想像する、子どもにふさわしい表現であったといえる」(村川京子「はじめて学ぶ日本の絵本史1」鳥越信編、ミネルヴァ書房)

などと評価はされているのですが、その後、この種の後続の出版が続いたということはないようです。
他にシルエットの絵本といえば、影絵作家の藤城清治さんの仕事のひとつに一連の絵本があります。
ただ、背景の豊かな色彩といい、切り絵的な面白さや繊細なフォルムといい、これらはどちらかといえば物語の想像性よりも、絵画的美的な想像性を喚起するといえるでしょうか。
影絵自体、どこか幻想的なものですしね。
しかし、やっぱり影絵の絵本は少ないです。

ですが、影絵劇となると、わりあいと盛ん。
藤城清治さんの木馬座もそうですが、劇団も、プロ・アマ含めていろいろあるようですね。
影絵劇で有名なインドネシア・バリ島のワヤン・クリは、その昔、絵巻物を見せながら物語を語るスタイルだったのだそうです。
それが、牛皮でつくった人形で影絵をつくり、ペープサートのように動かして語る今のようなスタイルになっていった。
というのも、影絵という表現が観客にアピールするものだったからなのでしょう。
影絵劇では、影の動きの素朴さもまた魅力で、観客の想像力をかきたてるのだと思います。

で、影絵アニメ。
となると、これは、やはりロッテ・ライニガー。
1920年頃から活躍したというから、大正浪漫の頃ですね。しかし彼女の作品は、時代の古さを感じさせないように思います。
「プリンス&プリンセス」の先駆け。というか、まるっきり「プリンス&プリンセス」の世界ではないでしょうか。
去年の暮れ、東京で上映会があったそうなんですが、おれは、とうとう行けませんでした。暮れは、「大停電の夜に」も見逃しちゃったしな……。

「ロッテ・ライニガーの世界オフィシャルサイト」
http://www.reiniger-world.com

そもそも「シルエット」ってのは、人の名前なんだそうですね。
フランスのシルエット伯爵。
彼が財務総監(今でいうところの大蔵大臣)を務めていたとき、何とか経費縮減をはからねばと躍起になっていた。
そこで考えたひとつが、肖像画。
それをみんな真っ黒な影絵にして(当時、影絵のような絵が流行していて、シルエット伯はそうした絵のコレクターでもあったのだとか)、画家に支払う高額な画料をケチったというはなし。
それは顰蹙(ひんしゅく)もので、が、そのせいばかりでなく、結局彼は失脚したのですが、シルエットという名前は歴史に残ったのだそうです。
その昔、知世さんは、大橋純子さんの「サファリ・ナイト」を歌ってオーディションを受けましたが、彼女のヒット曲のひとつに「シルエット・ロマンス」がありました。
しかし、シルエットは、ちっともロマンティックではなかったというわけです。
おれは、この話を文庫本のしおりに書かれていた“まめ知識”を見て偶然知ったのですが、得意げに友達に話したら、「それ、『トリビアの泉』でやってたじゃん」と言われてしまいました。
「プリンス&プリンセス」のミッシェル・オスロ監督のコメントを読むと、彼が影絵アニメという手法を選んだのには、経費節約という側面もちょっぴりあったのだとか。
シルエット伯爵とあながち無関係ではなかったようです。
が、経費がじゅうぶん節約出来るほどの単純素朴さがあるからこそ、そこに想像を広げることができる。
昔話を語る素朴な言葉が、心の中に想像の世界を築くように。

バリ島の影絵劇ワヤン・クリの「ワヤン」という言葉は「かげ」という意味なのだそうですが、白幕に映る影を意味するばかりではないそうです。
それは、人々の喜怒哀楽のかげ、生きる姿のかげ、魂のかげをも意味する。
経費節約のあの単純素朴さの中には、そんなかげも映っているのでしょう。







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テーマ : 女優    ジャンル : アイドル・芸能
2006_05_26

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