スポンサーサイト

category: スポンサー広告  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--_--_--

映画「紙屋悦子の青春」~レクイエム(鎮魂歌)からエレジー(哀歌)へ。エレジーからそして……

category: movie  

おれは単純です。
どうも、脳の構造がそういうふうにできてるらしいです。
(人はそれをアホと呼びますが。)
前に書いた文章など読むと、あちこちの本からいろいろ引用していることに改めて気づくのですが、これは、何となく賢そうに見せて自分のアホを隠そう隠そうという表われなのかもしれませんね。効果ないのにね。
考え方はどこかからの借り物めいてるし、結局言ってることは単純です。
感性のきらめきもない。
どうも独創性と個性に欠ける……。
しかしながら、独創性がないということは、つまり一般的。
十把一絡げの平々凡々たる普通さは、つまり一般ピープルの最大公約数的な普通さではないか。
アホはアホだから、まあ、しょうがないとしても、その凡庸さの中に、みんなに共通するような一種の普遍性があるのではないか。と、ひそかに自負しておりました。
ところがです。
この映画で、おれはどうやらみんなと違う感じ方をしているらしい。みんなとズレているただのアホかもしれぬ。ということに、ひそかに気づいてしまいました。
ラスト間近、永与が、明石の手紙を携えて、彼の死を伝えるために紙屋家を訪れるシーンです。
おれはこの場面を観たとき、知世さんの演技に違和感を感じてしまい、
で、その第一印象を、misaeさんのHPの掲示板にバァーッと書かせてもらいました。
が、その後、映画を観たという知人と話してみても、他の方の感想をネットで拾い読みしてみても、そんなふうに感じたということはありませんでした。
また、メールをくれた方も、知世さんの演技についてちょっと触れていたのですが、特にこの場面に関して違和感を感じたというわけではなさそうでした。
というわけで、おれの感想の方こそ違和感を感じると思われるかもしれませんが、いやしかし、ちょっと弁明させて下さい。

ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が「日本人の微笑(The Japanese Smile)」(「小泉八雲集」新潮文庫・所収)というエッセイを書いています(あ。スイマセン。またあれこれ引用しようとしています(^_^; )。
欧米人には、日本人の微笑が独特で不可思議に見えるそうですが、この文章が書かれた19世紀末当時はことさらに謎だったようです。
その中のエピソードのひとつ。
横浜在住のイギリス人の女性が語ったそうです。
彼女の家政婦である日本人女性が、ある日、楽しそうにニコニコしながらしばしお暇を下さいという。
彼女の夫が亡くなったため、葬式に行きたいというのです。
とまどいながらも英国婦人がもちろん許可すると、夕方帰ってきた彼女は、またニコニコ、笑い声さえたてながら夫の骨壺を見せたといいます。
「こんな嫌らしい人間のこと、お聞きになりまして?」
英国婦人はそう言って憤慨したそうですが、なるほどこのエピソードを聞いただけでは、彼女に同意の一票を入れたくなります。
家政婦の夫に大量の保険金がかけられていなかったかと聞き返したくもなります。
しかし、その状況をよくよく考え直してみると、100年の隔たりがあるとはいえ、同じ日本人として、彼女のふるまいが想像できなくはないのです。
その状況を、われわれ日本人が見たならば、彼女は、けっして楽しげには見えなかったのではないでしょうか。
悲痛のどん底の最中(さなか)にさえ、微笑むことがあるものです。
たとえば肉親が病院でこと切れた直後、お世話になった医師や看護師スタッフへの挨拶をするとき。
心情とは別に、礼節的なニュアンスで口元に笑みを浮かべる方を見かけることがあります。
明治時代の当時、家政婦の女性にとってイギリス婦人は奉公先の主人にあたり、ましてや異国人である彼女は一歩も二歩も距離を置く存在であったでしょう。
その彼女に気持ちをストレートに吐露するわけはなく、《奉公人vs.主人》の礼節を守りながら、彼女の前でことさらに明るくふるまって見せたとしても不思議ではありません。
それは、小泉八雲が指摘する通り、「卑屈」の微笑みではなかったに違いありません。
しかしながら、この場面をドラマの1シーンとして現実の場から切り離して、ただ見せられたらどうでしょう?
夫の死をにこやかに語って見せる日本人家政婦の映像は、われわれ日本人でも違和感を感じるのではないでしょうか。

紙屋悦子が明石との永久の別れに号泣したその数日後。
紙屋悦ちゃんは、恋する乙女の初々しさを思わせる晴れ晴れとした顔で、永与の訪問を出迎えます。
しかし、予想されてはいましたが、永与がもたらしたのは、明石の訃報と悦ちゃんに遺した手紙でした。
そして、勤務地が変わることになったという永与に悦ちゃんは、
「待っちょいますから」
と、悦ちゃんにしてはアクティヴに自分の気持ちを伝えます。
「日本がどんなになっても、ここで待っちょいますから。きっと迎えに来て下さい」
そこには、これからはこの人といっしょに人生を歩んでいきたいという決意、いわばプロポーズの意味合いもあったと思います。
そう語る悦ちゃんの瞳には、キラキラな輝き。
しかし、おれはそのキラキラ目に違和感を感じてしまったのでした。
もちろん、失恋しちゃったから次の恋に乗り換える……といった軽いノリの替わり身でないことはわかります。
明石とは、実際には深く分かち合うところまで進展した関係ではなかったし、永与と寄り添うことは、むしろ明石の望んだ遺志でした。
が、はっきりとは描かれませんが、明石は悦ちゃんの想い人(おもいびと)であり、やはり魂と魂の結びつきを感じる人物であり、だからこそ号泣する悦ちゃんに観客はもらい泣きし、彼の死に戦争の不条理さを感じたはずです。
永与来訪までの数日の間に、悦ちゃんの心の整理がついたとも考えられるでしょう。
しかし物語を見守る観客としては整理がつけられず、おれのテンションはついていけませんでした。
そして、愛する人を失いながら微笑んで見せる日本人に対してイギリス人女性が感じたであろう違和感を、おれも感じたのでした。

永瀬正敏さんの述懐によれば、黒木監督は、撮影前の喫茶店で、この映画で人生の哀歌を撮りたいとおっしゃっていたそうですね。
哀歌。エレジー。
この映画の中で、その哀しみは、明石の死に集約されています。
それがなければ、物語の人物たちは、むしろ幸せなのではないでしょうか。
戦時下の不安な生活ではあるけれど、一家の柱である兄・安忠(小林薫)は戦場に赴くわけではなく、貧しくはあるけれど、ひもじさに悩まされるほどではない食生活は確保できています。
そして、そんな中で身を寄せ合い暮らす家族のユーモアとぬくもりは、ささやかだけれど、うらやましいくらいに幸福そうに見えます。
けれど、明石はひとり死へと旅立つ。
もしも明石がまったくの他人で、ここに明石への想いがないとしたなら、哀歌は成り立ちません。
友情や愛情やそうした想いがあるからこそ、どうしようもなく哀しい。
その哀しみを背負い数十年の年月を重ねた永与・悦子夫婦の物語の中に、色合いを変えながら哀歌が浮かび上がってくるのです。
それはつまり、過去を断ち切り忘却へ追いやることで前を向くのではなく、過去と想いを背負った上で前向きに歩み続けてきた数十年なのではないでしょうか。
病院の屋上に寄り添う老夫婦の中から、明石の姿が消去されているとは思えません。
明石が書き送った手紙はスクリーンの中で読まれることはありませんでしたが、悦ちゃんがそれを捨てたとは思えません。
たぶん、彼女の胸の奥底に大切にしまわれている。
哀歌のメロディを大事に慈しむように。

そして、悦ちゃんが「待っちょいますから」と永与に自分の意志と情熱を伝えたその場面にも、メロディは流れていたと思うのです。
明石の死を背負うからこそ、その意志と情熱は確固として。
愛する人をもうこれ以上失いたくないという痛切な想いとともに。
そんな必死な前向きさ、奥深さを、知世さんの中におれは感じとれませんでした。
むしろ明るくストレートな情熱を感じたのですが、そう思えば思うほどに違和感を禁じ得ませんでした。
ここの台詞は、明石の死ともいえるその手紙を胸にかき抱き、涙をにじませるくらいの必死な微笑みで語られるべきなのではないかと、そう思ったのでした。
だからこそ、次のシーンで、夫からの便りを女学生のように待ちわびる義姉ふさ(本上まなみ)の可愛らしい遠景が、張りつめた緊張の後の緩和のクッションとして生きてくる。
そして、哀しみを乗り越えながらも哀しみとともに生きたその後の数十年の重み、哀歌としての物語が生きてくるのではないかと、整理して考えてみてもそう思いました。
いやいや。
そう思ったのですが、日本人家政婦の微笑みを誤解したイギリス人女性と同じように、おれも見間違ったのかもしれません。
家政婦に近しい日本人であればその微笑みの裏の心情を読み取れたであろうことを、おれは読み取れていなかったのかもしれません。
そして何より、知世さんの演技というより、その演技にOKを出した黒木監督の演出意図のようなものが何かしらあったのではないかと、今、ちょっと思い始めています。


黒木監督の「Tomorrow 明日」「美しい夏キリシマ」「父と暮らせば」の三作品は、「戦争レクイエム三部作」と呼ばれます。
もしかしたらこの呼称は周囲がプロモーション的に付けたもので、監督自身は意図していなかったかもしれませんが、文字通りの鎮魂歌(レクイエム=亡き人の魂を鎮めるための歌)と言っていいでしょう。
この三作に対して、「紙屋悦子の青春」は、エレジー(哀歌)であるという。
(いえ、実はパンフレットでは、この「紙屋悦子…」もまたレクイエムであると監督は書いてるんですけどね。)
しかし、三作のレクイエムとはまた違った作品を構想していたのではないかと想像することができるように思うのです。

「Tomorrow 明日」の次の「浪人街」(1990年公開)撮影後、監督は大病をされ、入院されたそうですね。
実は、撮影中、すでに病いが進行していて下血が激しく、突然しゃがみこまねばならないような無理をおして撮影に臨まれたのだとか。
そうして入退院の生活を送り、約10年が経過する。
その間、監督は、監督自身の「私の戦争」を考えていたといいます。
「Tomorrow 明日」で戦争を取り上げながら、しかし満足していなかった。
自分の視点をはっきりさせ、改めて戦争を描こうとしたそうです。
そこで監督は、それまで周囲にも語らなかった自身の戦争体験と真っ正面から向き合います。
旧制中学の少年時代、空襲により、11人の級友たちが殺される。
その1人は監督の友だちで、監督の目の前で頭を撃ち抜かれる。
ほとんど即死で、そこから逃げ出すのは当然と思えるのですが、彼を見殺しにしてしまったという罪の意識がずっとあったのだそうです。
当時、PTSD(心的外傷後ストレス障害)となって不登校になったりするのですが、それはその後の人生に大きな心の傷痕を残すことになったのでした。
その体験を自ら語る監督の姿を、おれはたまたまTVの「徹子の部屋」(ANB)で見かけました。
ぼそぼそという穏やかな語り口の中に、真摯さ、誠実さが伝わってくるような気がしたのを覚えています。
そんな自身の体験をモデルとして、「美しい夏キリシマ」が撮影される。
その完成後の2002年。かつて助監督として黒木監督と苦労をともにした盟友でもある東陽一監督のもとへ、監督が相談したそうです。
完成はしたものの、配給先がなかなか決まらなかった。
そこで東監督が、満を持して来年公開したらどうかと言うと、黒木監督は一瞬絶句したそうです。
来年まで自分の体がもつとは思っていなかったのではないか。
と、東監督は語っています(TV「戦争へのまなざし~映画作家黒木和雄の世界」NHK教育)。
大病をした監督は、自分の命の限界を感じていたのではないか。
だからこそ、命あるうちに作品を残しておきたかった。
目の前の友だちの頭半分がざっくり持っていかれ、脳漿が飛び散る光景など、忘れ去りたいに決まっています。
恐怖や絶望、申し訳ないという思いや非力感とともにすべての記憶を封印したいに決まっています。
その記憶を語り、わざわざ作品にするということは、かさぶたをはがすどころか、臓腑をえぐる傷みを伴ったのではないでしょうか。
しかし、あえて映画化することを選んだ。
そこには、贖罪の気持ちと使命感があったような気がします。
自分の体験を──戦争ということを、映画人として伝えなければならぬという。
結局、「美しい夏キリシマ」はじゅうぶんな準備期間を得て、翌年の2003年に公開され話題を呼び、
2004年の「父と暮らせば」、2005年の「紙屋悦子の青春」(公開は2006年)と、
立て続けに作品が生み出されます。
戦争のために夭折した山中貞雄監督を取り上げる企画など、監督はなおも次の作品を構想しておられたそうですから、その死は突然だったのでしょう。
しかし、やがて訪れるだろうカウントダウンを、半ば意識されていたような節も見えます。
原田芳雄さんによれば、「父と暮らせば」の舞台用の脚本をほとんど生かしながら映画とする無謀さを周囲は危うんだそうですね。
そこには撮り急ごうとするような焦燥感があったのではないかと。
確かに、急いでいたのかもしれません。
しかし黒木監督は、そんな焦燥感とは裏腹の、丁寧で味わいの深い作品をおれたちに残していってくれたのでした。

近親者の死を体験したとき、その死が自分のせいではないかという、いわれのない罪悪感をもつ心理があるといいます。
「父と暮らせば」原作者の井上ひさしさんは執筆にあたって、ヒロシマで被爆された方たちの膨大な手記を渉猟されたそうですが、その多くに見られたのが、命を失った方たちへの負い目だったそうです。
それは、日本人的な罪悪感といえるでしょうか。
なぜ彼(彼女)が死に、自分が生き残ったのか。
「父と暮らせば」の生き残ったヒロイン・美津江(宮沢りえ)の苦悩を、父・竹造(原田芳雄)は病気だと言って
「“後ろめとうて申し訳ない”病」
と名付けます。
「死ぬのが自然で、生きるのが不自然」というあの状況の中で生き残ったことが“後ろめたい”。
死んだ人たちに“申し訳ない”。
それはそのまま、多くの戦争体験者の苦悩であったでしょう。
そして、監督自身の苦悩とも重なっていた。
「(罪障感を引きずっている)美津江は、まさに私なのでした」
と、監督自らが書いています(「私の戦争」岩波ジュニア新書)
そんなヒロインに、幽霊となった死者である竹造(原田芳雄)はメッセージを送ります。
「生きよ」と。
自分の分まで生きよと。
「わしの分まで生きてちょんだいよぉー」
ちょっとコミカルな原田芳雄さんのその台詞は、戦争とは無縁のように知らん顔で生きているおれの胸にもしみるものでした。
「おまいはわしによって生かされとる」
と、竹造は娘に言います。

「まことあよなむごい別れが何万もあったちゅうことを覚えてもらうために生かされとるんじゃ。
(中略)人間のかなしかったこと、たのしかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」(パンフレット所収のシナリオより)

こうした台詞は、まさに「私に向けられた言葉」だったと監督は記します(前出「私の戦争」)。
そしてまさに、この台詞通りの仕事をやり遂げるために、残された命の火を燃やし尽くされたのではないでしょうか。
竹造の声、つまり、空襲で命を落とした11人の級友の声に答えるために。

死者に捧げるためのレクイエム(亡き魂を鎮める歌)三部作は、
生き残った者たち、そして半世紀後の今を生きるおれたちへ届けられたこの死者からのメッセージによって、ひとつの完結を見たように思われます。
そして実は、レクイエムのメロディの陰に、「人間のかなしかったこと」を伝える歌が流れていた。
「紙屋悦子の青春」は、その軸足の重心が移動したのではないかと思うのです。
つまり、死者のための「レクイエム(鎮魂歌)」から、生きる者のための「エレジー(哀歌)」へ。
半ばユーモラスでもあるこのエレジーでは、死者となる明石ではなく、その死者から手紙を託される紙屋悦子の視点が描かれていました。
死者からのメッセージを胸に抱いて生きていこうとする姿。
そこにあるのは、言いようのない哀しみです。
しかしこのとき、監督は、このエレジー(哀歌)に、実はさらにもう一つのメロディを加えていたのではないか。
そんなふうに今感じます。
つまり、生命(いのち)への「讃歌」を。
あの波のざわめきを。
それは、レクイエムの中でもずっと通奏低音のように流れているものでした。
もしかしたらこの讃歌は、哀しみの中で、哀しみを越えるところで、深く聞こえてくるものであるのかもしれない。
悦子・永与の二人が、波のざわめきに耳をすまそうとする。
そして年老いた二人がまた、波のざわめきに耳をすまそうとする。
あの場面が、どこか清澄な、やわらかな空気を感じさせるのは、そんな讃歌が底に流れていたからではないでしょうか。

レクイエム(鎮魂歌)からエレジー(哀歌)へ。そしてエレジーから「讃歌」へ。
そう考えると、おれが違和感を感じた紙屋悦ちゃんのあの瞳キラキラもアリなのではないかと……。
あのストレートな意志と愛情表現は、純粋に讃歌として成り立つのではないか……。
いや。
うーん。やはり、おれの中から違和感は消え去りません。
やっぱ、アホかも。
おれとしては、画竜点睛を欠くようで何だかとっても惜しい気がしたのですが、
こんな感じ方をするアホが若干名いたとしても、作品の真価を損ねるものでないのはもちろんです。

この世とあの世を分ける黄泉津平坂(よもつひらさか)の彼方へ、明石は去りました。
しかし、悦子と永与に手紙を託して行きました。
その手紙は最後まで読まれませんでしたが、ひょっとしたら、
「わしの分まで生きてちょんだいよぉー」
と書かれていたのではないかと想像してみます。
まあ、明石さんの故郷(くに)の方言では、こんな言い方はしないかもしれませんが。
その生を、悦子と永与は生き抜いたのではないか。
黒木監督もまた、黄泉津平坂の向こうへと旅立ったわけですが、
やはり手紙を、21世紀に生きるおれたちに託していったのではないでしょうか。
作品という手紙。
平和といわれるこの時代に生きるおれたちは、平和といわれるこの時代だからこそ、この手紙を味わい楽しみつつも、かみしめる必要があるのではないかと思うのでした。

スポンサーサイト

2006_12_12

Comments


 管理者にだけ表示を許可する

04  « 2017_05 »  06

SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

porepore。

Author:porepore。

ブログ内検索




page
top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。