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咲くが如く

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学生時代は、「古典」の授業ほどつまらないものはないと思ってました。
たいていの授業はボーッと聞いていたものですが、特に「古典」は居眠りの時間と決め込んでいたように思います。
が、最近、「今昔物語」を読み始めたら、意外や意外。
こんなにおもしろいんだったら、学生の時にちょっとは勉強しときゃあよかったと思うのですが、後の祭り。
まあ、祭りは、後になってもいつになっても楽しいもんですが。
で、中の漢字の使われ方が今と違って、またちょっとおもしろい。
たとえば、これは当て字だそうですが、「微妙」と書いて「微妙(めでた)し」と読ませます。
「めでたし」は、「wonderful!」とか「marvelous!」とかいうような意味なのですが、それが「微妙」とは、なかなかビミョーですね。

そんなひとつに「咲う」というのがあります。
これで「わらう」と読みます。
今の「笑」の字と同じ使い方をされていて、たとえば、「もう笑わせないでよ、ククク…」というときの「可笑(おか)しい」も、「可咲し」と書きます。
「頬笑(ほほえ)む」ときも、「頬咲む」と書きます。
(この「ほほえむ」は、「ホホホホ……」とお上品に「ホホ笑む」のではなく、昔は、意地の悪いニヤニヤ笑いを頬に浮かべるという意味で使われたそうです。)
一方、花がさくというときには、「今昔物語」では「栄(さ)く」という字が使われています。
人は咲(わら)い、花は栄(さ)くというわけです。
しかし「咲」は、他の古典、たとえば「古事記」をひもといてみても「咲(わら)う」として使われていますから、そうとう昔から使われていたんですね。
と思っていたら、明治の著作にも「咲顔(えがお)」とあったりするので、「咲(え)む」「咲(わら)う」は、つい先頃の昔まで使われていたようです。
調べてみると、どうやら中国でも本来、「咲」という漢字は「わらう」意で、口をすぼめてわらうことを意味していた。
もともとは口(=くちへん)に“笑”と書いていたのが、省略されて「咲」と書かれるようになったのだそうです。
その「咲(わら)う」が日本へ伝えられ、使われていくうちに、草花が「咲(さ)く」という意味に変わっていったという説があります。
たとえば、桜がいっせいに花開き、冬枯れ然とした山を彩っていくようすが満面の笑顔を連想させたのでしょうか?
(ちょうど「山笑う」という俳句の季語のように。)
あるいは、つぼみを柔らかにほころばせて咲く花に、たとえば女性の微笑む様(さま)を連想したのでしょうか?
それとも反対に、人のニッコリと笑みを浮かべる表情に、ほっこりと花弁を開いてみせる花を連想したりすることもあったのでしょうか?
わかりませんが、人の「笑う」と花の「咲く」に共通の何かを見いだした昔の人の感性はなかなかのものだと思います。

ところで、月刊「ノジュール」(2006/11月創刊号)の知世さんのグラビア、すてきでした。
いわゆるアイドル時代によく使われていた撮影スタイルでのアプローチのような気がするのですが、改めて写し出された30代の知世さんは、年輪のたおやかさを感じさせながらも19歳の頃を彷彿とさせるものでした。
ここ1、2年、知世さんの顔が変わった気がします。
もともと奥二重で、髪型やメイク、光の加減や角度で顔の見え方が変わりやすい。
似顔絵を描こうと試みる者にはまことに手に余る知世さんですが、最近は特に変わって見えます。
久しぶりに前髪をおろした影響ももちろんあるかもしれませんが、メイクの方向性も変わってきたような……。
時代の反映か、おなじみのメイクの小暮モエさんのワザの変化か、あるいは知世さん自身の意向かわかりませんが、一頃に比べると、よりナチュラルになったように思われます。
ことに眉山は、一時期、キリリと角度があってきつめだったのが、ソフトなカーブを描くようになった。
……ように見えます。
そのせいか、以前に感じられた──何て言ったらいいのでしょうか──ピリピリした影のような空気がほのかに溶けて、やわらかな春風のような落ち着いたゆったり感がある。
まあ、いちばんの影響は「ノエビア505」を使うようになったことでしょう。
……って、あ、いえいえ。
もしかしたら結婚による精神的な変化も大きいのかもしれませんね。

世界を廻り、荒波を駆け巡る船にとって大切なのは、実は港だと思います。
実際には帰港する機会や時間が少なかったとしても、帰っていける、安心のできる港があるからこそ、冒険にも出かけることもできる。
子どもが自立するためには、港──家庭という依存のできる港の充実が必要であるといわれます。
家庭でなくても、安心のできる居場所や人の存在があって初めて自立ができるというのです。
それはおとなにも言えることではないでしょうか。
知世さんの表情のやわらかな変化は、港を見つけた旅人のそれなのではないかと、何だかそんなような気がする今日この頃。


まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり


と、何だか読む方も恥ずかしくなっちゃう詩ですが、若き日の島崎藤村は、前髪をあげておとなへの階段を昇り始めた少女に花を見てたんですね(「初恋」~「若菜集」より)。
それは櫛の花飾りではあったけれど、やっぱり少女の姿そのものに花一輪を見ていたのでしょう。
前髪をおろし初(そ)めしひともまた、花一輪のように思えます。
時にもの思わしげに、時に愁い、そして時に唇をほころばせ微笑むその様(さま)は、成長の実りを感じさせつつ、つぼみをほころばせて咲き初めた花のふくよかな香りの漂うようで。
確かに、「笑」は「咲」なりと思ひけり、なのでした。

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2006_12_27

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