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映画「となり町戦争」~リアルということ。

category: movie  

事件が起こったのは、近所のコンビニでした。

ぶらり買い物に行こうとしたら、パトカーが何台か並んでいて、ずらりお巡りさん。
当時、「山田風太郎からくり事件帖」(NHK/2001年=知世さん出演)という明治の時代劇をTVでやっていたのですが、
手に手に六尺棒を持って立つその姿は、ドラマの中の警視庁草創期の巡査たちそっくり。
暴漢を取り押さえるには、昔も今も長い棒が効果的なんですね。
取り巻く野次馬連のひとりに聞いた話では、アルバイト女子店員が怪我をして、さっき救急車で運ばれて行ったとのこと。
テレビや新聞の中では、強盗も傷害も殺人さえも日常茶飯事となっていて、よほど大きな事件でもなければ気にもとめません。
が、それは、おれたちの日常の隣りで現実に起こっていることなんですよね。
しかし、警察官が六尺棒を持って立ち並ぶ光景は、やっぱりどこかドラマめいていて、非現実的に見えました。
その翌日の朝刊だったか、地方版の小さな記事。
おれはてっきりコンビニ強盗かと思っていたのですが、事件を起こしたのは女子店員の元カレで、フラれた腹いせか、しつこくつきまとって店へ乗り込み、刃物を振り回したのだとか。
おれの家の目と鼻のような場所で起こったことですが、真相を知ったのはその記事の活字を通してなのでした。

その事件とはまったく別に、そのコンビニから歩いて1~2分の公園で通り魔殺人が起こったのは、1~2年後くらいだったと思います。
早朝に通りかかったご老人が刃物で刺された。
その日は、やけにパトカーが通るなと思ってはいました。が、後で新聞を読んで事件を知って驚きました。
その後長いこと犯人が見つからず、うちにも聞き込みの警察の方が訪れ、目撃などしなかったかと訊いて行きました。
結局犯人が見つかったことを知ったのも、また新聞を通してでした。

「ここらじゃ祖父(じい)さんの代から犯罪らしい犯罪は起こったことがない」
なんていう土地に住んでいる人が聞いたら、なんて恐ろしい犯罪都市だろうと思うかもしれませんね。
が、実際には、ここらは東京といっても都心からは離れた何ということもないごく普通の町で、退屈なくらいに平穏なところです。
この春も、事件のあった公園は花見の人々でにぎわい、ウグイスの初鳴きが聞こえたりしていました。
(もっとも、たしか近くには近藤勇が露と消えた板橋刑場があったはずで、何となく陰の気が漂うような気がしておれはその近辺があまり好きではありません。)
しかし、たいていの町では大なり小なり、こうしたことが起こっているのではないでしょうか。
すぐ隣りで非日常的な事件が起こっていたりする。
理由もなく生命(いのち)が絶たれるような痛ましい事件さえ起こっている。
おれも、コンビニへ行く時間がちょっとズレたりしたら、また公園をちょうどその時間に通りかかっていたとしたら、事件に巻き込まれていたのかもしれません。
けれど当事者でも家族でも関係者でもないおれにとって事件は他人事で、そんな現実をすっかり忘れてこの町で日常をのほほんと過ごしている。
血痕を見たわけでもなく、匂いを感じたわけでもなく、被害者の悲鳴を聞いたわけでもない。しかし実際に被害者はこの町で暮らし、おれはもしかしたら道端で加害者とふつうにすれ違っていたかもしれません。
そんな近所に住んでいるくせに、けれどおれはマスメディアを通して事件を知っただけでした。
リアルじゃない、わけです。

雲2

映画「となり町戦争」の原作の小説(三崎亜記「となり町戦争」集英社)を読むと、やたらに「リアル」という言葉が出てきます。
主人公である「僕」はたとえば、鬼の見えない鬼ごっこに巻き込まれるような逃避行の中、暗渠(いわば地下水路)の真っ暗闇の中で感じます。
──「僕は僕の中のリアルを失う」と。
その闇の中を歩きながら、戦争映画のような感覚を味わうのですが、しかし彼はもちろんそれまで戦争を体験したわけではなく、戦争映画さえ見た記憶がないのでした。
彼は彼の中にある「普遍化された戦争のイメージ」の中を歩いているのだといいます。
実は、この小説全体がそうなのでしょう。
主人公は、周りも自分も見えない五里霧中の中で、ただひたすら指示の声に従って、戦争を経験する。
が、その戦争はイメージでしかない。
リアルを感じることができない。
リアルと思うことが出来たのは一瞬、しかも、終戦近くに見た夢の中でした。
その「リアル」感も途端に失われ、不安の海に沈んで行く。
すべて夢の中の出来事。

そうして物語の最後で彼はようやく「リアル」を感じます。
感じとったのは、町役場職員であり作戦パートナーとなった香西さんを通して。
物語の中で彼が唯一、「わたし/あなた」の二人称の関わりを結んだ女性。
その彼女の容貌、肉体、存在は、小説全体を通してリアリスティックに描写されています。
彼女がベッドではっきりした理由もわからずに泣いたとき(その理由は後に明かされます)、口にふくんだその涙の味に「リアル」を感じる。
そして別離の時が訪れ、彼女を失うのだという痛みを彼が感じたとき。
その痛みが、「僕が感じた、最初で最後の、『戦争のリアル』」だったと述べられています。

雲1

作者三崎亜記さんがこの小説を構想するきっかけは、学生時代に起こった湾岸戦争だったそうです(三崎亜記公式サイト内・「となり町戦争」のページ〈http://www.shueisha.co.jp/misaki-aki/tonari/index.html〉)。
あの頃テレビで、花火のようにきらびやかな爆撃の映像が流れていたのをおれも覚えています。
ピンポイントで敵の拠点を叩くというのが米軍の言い分でしたが、実際には、誤爆もあり、近隣の一般市民を巻き込んで家を焼き、手足を奪い、生命を奪うということがあったようです。
が、そうしたニュースが伝えられたのは後になってからで、カート・ヴォネガット流の言い回しで言えば、当時、最新高性能爆薬のゴージャスな爆発の閃光の数々はショウ・ビジネスの一分野であったわけです。
その光の陰で流され続けたはずの、人々の血と悲鳴とうめき声は、テレビの前のおれたちにはリアルではありませんでした。

そうした「リアル」さの行方は、例の「9.11」のときにはいっそう訳がわからなくなっていた気がします。
ニューヨーク・世界貿易センターのツインタワー・ビルへと航空機が突っ込んで炎上したそのスペクタルな映像。
しかしそれは映画で見慣れたCG合成の1シーンのようであり、リアルさに欠けるという声の一方(おれもそう感じたひとりです)、そんなリアルさに欠けることが現実に起こってしまったということに衝撃を感じた人もいました。
まぎれもなく現実に起こっている光景が、リアルに見えない。
何がリアルで、何がアンリアルなのか?
戦争を現実に経験した人間、経験していない人間に関わらず、感じる「リアル」はますます混迷を深めているようです。

それは「戦争についてのリアル」だけではないのでしょう。
精神病理的なこの時代の病理について、香山リカさんが書いています(「多重化するリアル~心と社会の解離論~」ちくま文庫)。
「この世界、この世界に存在する自分自身にリアルさを感じられない」
「自分が生きていることにリアリティを感じられない」
──そう考える人々が増えている。また、そこまで明確に思わないとしても、多くの人の心の中で「リアル」が捕まえにくくなっているのではないか。というのです(これは専門的には、離人症などの解離性障害といった精神障害に似ているんだそうです)。
こうした時代的な背景もあるのかもしれません。
が、隣りで現実に戦争が起こったとしても、それをリアルに感じられない。
町の広報紙で「戦死者12人」と書かれているのを読んで動揺したとしても、それをリアルに感じられない。
そんな主人公の姿は、しかしリアルであるように思います。
隣りで殺人が起こってもリアルに感じられないおれにとって──その記事を新聞で目にしてもなかなかリアルさと結びつけられないおれにとって──この小説世界は、おもしろいかおもしろくないかは別にして、リアルでした。
鏡となった小説の行間から自分の姿を垣間みるように。

雲1

さてしかし、この小説は映画化しにくいと言われてきました。
戦闘シーンも爆破シーンもない。
しかし、映画化しにくかった理由はそれだけではないでしょう。
ドラマは葛藤であるといいます。
手垢がつくほどによく使われる言葉ですが、使われるほどに真理を含んでいると思います。
これはつまり、葛藤がなければドラマは生じない。あるいは進展しないということです。
「アンパンマン」でも、バイキンマンという悪役が登場して問題や困難を呼び込んで「葛藤」を引き起こさなければドラマが成り立ちません。
しかし、小説「となり町戦争」には、葛藤がありません。
いや、まったくないというわけではありません。が、葛藤が目に見えるほどになるまでには、心的エネルギーが強く揺れ動かないのです。
主人公は、戦争を起こったことを知り、誘われるままにその戦争へと自らが参加する。
戦争という状況に巻き込まれながら、しかし、与えられた自分の仕事を消化するだけ。
上司に指示された役目をこなし、書類を作成して報告する。
そんなルーティンな作業のくり返しを行うことで彼は戦争を行います。
ちょうど役所の職員のように。受け身的なサラリーマンのように。
現実の戦争というのも、そうなのかもしれません。多くの人々は歯車の一かけらとなって自分の職責を果たすだけで、そこに戦争というものへの積極的な意思や責任は感じてなかったりする。
そして、そこに葛藤もありません。
その大きな理由のひとつは、戦争をリアルに感じられないということでしょう。
リアルに感じられないものに葛藤を起こすことなどないからです。
映画では違いましたが、小説では、主人公を逃がすために佐々木さんという潜入員が殺されます。
自分のために犠牲になって死んだ女性がいたことを、主人公は後になって知る。が、彼はその時、持って行き場のない怒りを香西さんにぶつけるだけで、罪悪感や葛藤に駆り立てられるには至りませんでした。
佐々木さんとは一度町で顔を合わせているものの、彼女の死は、彼にとってリアルではない。
それゆえ葛藤はなく、彼は何か行動を起こすわけでもなく、つまり大きな劇的な展開はないままに、淡々と物語は終わります。
香西さんの悲劇と別離を苦く噛みしめたとしても、彼はただそれを受け入れるだけでした。
何も行動を起こさない彼のそんな姿は、現代という時代のリアルを持っていたのだと思います。

その映画化しにくい物語が、映画になったわけです。
スクリーンの中は虚構(大林宣彦監督流の言葉で言えば「うそ」)です。
が、カメラは、即物的にリアルを写し取ってしまうツールであり、画面に盛り込まれるのはリアルそのものの姿です。
「うそ」だけれど、嘘はつけない。
たとえば映画「となり町戦争」の中に、大きな杉の木が出てくるシーンがあります。
これは、松山市の天然記念物である、新宮神社の三本杉だそうです。
物語の中では「闘争心育成樹」として登場します。(闘争心が薄れ、憎しみもないところに、わざわざ闘争心を育てなければならないというアイロニーがあるのでしょう。)
しかし、映し出されたその姿は、樹そのものの存在感がスクリーンからはみ出しているようにも見えました。
「闘争心育成樹」とかいう人間の小賢しいレッテルなど嘲笑うかのように、いや、まるで眼中にないかのように。
400年という春夏秋冬を重ねてきた年輪の重み。リアルを超えた(=スーパー)リアルな存在感。
カメラはそんなリアルをも写し取るわけです。
そして、人間の生身のリアルをも写し取る。
物語「となり町戦争」は、そうした映画となることで、変容せざるを得なかったのだと思います。

なにしろ、主人公北原にキャスティングされたのが、江口洋介さん。
軟派なプレイボーイを演じてもどこか誠実さを感じさせてしまう、ふつうの庶民を演じてもどこか骨太さを感じさせてしまう、ヒューマンな医師を気取らない自然体で演じ、一家を支える熱い兄(あん)ちゃんにピッタリな、あの江口洋介さんです。
その江口洋介という肉体と存在のリアルを与えられたとき、北原という人間は変わらざるを得ない。
キャスティングより先に脚本が書かれていたとしても、です。
江口洋介さんは、渡辺謙作監督から「何もしないで」という演出の指示を与えられたそうですが、なるほど納得。
北原は、何もしない男。
しかし、何もしないふつうの江口洋介は、何もしなくてもごくふつうにこう言いそうな気がしてしまいます。
──「え? それってヘンじゃないの? おかしいじゃん。何だよ、それ」。
となり町と戦争が始まるという。戦死者が出ているという。そうした状況に対して、ふつうにツッコミを入れるのではないかと思わせられるのです。
小説版・北原は、疑問を感じながらもエキセントリックな状況を受け入れていく。
けれど、江口版・北原は、受け入れたとしても、葛藤を感じていく。エモーショナルに。
夫婦を装っての潜入査察の中で、香西さんが北原に身を預けセックスをするのですが、実はそれも業務のひとつであることを後で知る。
その時、小説版・北原は他人事のような気がして、不思議に哀しみを感じなかったと述べられます。
一方、江口版・北原は、危機一髪のドサクサでそれを知るのですが、本気で哀しみ、怒る。
──「え? それってヘンじゃないの? おかしいじゃん。何だよ、それ」。
つまり、リアルかアンリアルかなど問題ではなく、即物的。おかしいものはおかしいと感じるふつうさ、精神の健康さがあるように思うのです。
だから、映画のラストで、なおも業務として政略結婚的にとなり町に嫁ごうとする香西さんを強引に引き止める。
葛藤がドラマになる。ドラマティックになる。
まあ、ロマンティックなシーンとなるわけですが、これは江口洋介さんをキャスティングした時からの当然の帰結ではないでしょうか。
あるいは、だから江口洋介さんをキャスティングしたのかも。
自意識に迷って自ら行動を起こせないハムレットは近代的人物像のひとつの典型だそうですが、北原はハムレットであることをやめ、パッションのままに行動へと一歩を踏み出すわけです。

しかしながら、それは映画全体としては齟齬を生み、焦点をぼやけさせてしまったような印象があります。
北原の行動は、システムのままに流され、戦争にとりこまれていく状況に対して、個の人間性とリアルを取り戻そうとする行為だったかもしれません。
そもそも恋愛とはそういうチカラを持っているものなのでしょう。
が、単なるラブロマンスのようにも見えた。
中途半端にそう見えてしまいました。
渡辺謙作監督は、いろいろな見方ができる映画だとコメントされていたようですが、確かにそうかもしれません。
が、そのために焦点も、いえ、輪郭さえぼやけて見える。
サスペンス。ロマンス。ちょっとコメディ。日常の中の戦争という不条理を描いた戦争映画。
もちろんそうした要素は混在していてアリですが、けれどどんな味を味わったかわかりにくい。

サスペンスとは何かについて、ヒッチコックが語っていました(「映画術」ヒッチコック/トリュフォー、訳・山田宏一/蓮實重彦、晶文社)。
たとえば、机の下に時限爆弾が仕掛けられているところで人物が会話している。
それがサスペンスとして成り立つには、爆弾が仕掛けられていることを観客が知っていなければならないというのです。
爆発する危険性を観客が知ることで、不安と恐怖が生まれ、引き延ばされ、つまりサスペンスがわきおこる。
もしも爆弾を知らされないままであれば、観客は、ただ人物たちが会話しているだけの「なんのおもしろみもない平凡なシーン」を見せられるだけです。
そこで突然、ドオーンと爆発が起こっても、それは「サプライズ」(不意打ち、ビックリ仕掛け)。サスペンスではないといいます。
しかし、たとえば午後一時に時限爆弾がセットされていることを観客が知っていたとしたら、人物たちの日常的なおもしろみのない会話もスリリングになって生きてくる。
そんなくだらない話しをのんびりしている場合じゃないだろ、あと15分で爆発するんだぞ。
観客はシーンの中に参加して、こう人物に声をかけながら、ドキドキ、ヤキモキすることになる。
ドンデン返しのサプライズで盛り上げるやり方もありますが、サスペンスの演出を意図するならば、危険の事実をあらかじめ観客に知らせなければならないとヒッチコックはいうわけです。
その危険が、時限爆弾のようにわかりやすい設定ではない場合もあるでしょう。
鳥が襲ってくる。サメが襲ってくる。エイリアンが襲ってくる。小惑星が地球に衝突しようとする。
そしてそれが見えない敵、正体不明のわけのわからないミステリアスな状況という場合もあり得ます。
たとえば、日常と隣り合わせの見えない戦争というような場合。
しかし、であったとしても、その危険性を観客に知らせることで、サスペンスは盛り上がる。
状況の危険性をきちんと知らされなければ、あるいはその匂いを察知できるものがなければ、サスペンスは成立しません。
観客は、日常的な「なんのおもしろみもない平凡なシーン」をただ見せられるだけです。
しかも、サプライズもないとしたら、おもしろくもなんともないことになります。映画的には。

雲1

逃避行をする際に北原が香西さんから電話で言われる言葉は、小説でも映画でも共通です。

「あなたはこの戦争の姿が見えないと言っていましたね。もちろん見えないものを見ることはできません。しかし感じることはできます。どうぞ、戦争の音を、光を、気配を、感じ取って下さい」

これはそのまま、戦争のリアルを知らない世代に向けたこの物語のメッセージでもあるでしょう。
小説ではストレートすぎるほどにこう書かれています。

──「僕たちが戦争に反対できるかどうかの分岐点は、この『戦争に関する底知れない恐怖』を自分のものとして肌で知り、それを自分の言葉として語ることができるかどうかではないかと。スクリーンの向こうで起こっているのではない、現実の戦争の音を、光を、痛みを、気配を感じることができるかどうか。」

しかしながら、映画作品としては、スクリーンの向こうから、「戦争の音を、光を、痛みを、気配を」観客に感じ取らせなければならないわけです。
でなければ、戦争の恐怖に共感することもサスペンスを味わうこともできず、おもしろみのない平凡なシーンをながめるだけとなりかねません。

キャッチボールというのは、何ということもないちょっとした遊びですが、単なる遊びと言えないところがあるような気がします。
「言葉のキャッチボール」などと比喩に使われるように、心のやりとりみたいな象徴的な何かを感じる。
だから、北原がする駅員とのキャッチボール、同僚の女子社員とのキャッチボール。映画の中でそんな光景が登場すると、まったく意味のないことのようには思えません。
その女子社員・本田(小林麻子)がある日突然亡くなる。
戦争による死というかたちで。
ところが、彼女の葬式のシーンは淡々と描かれるだけ。そこから何らかの感慨は伝わってきませんでした。
精神的に距離のある同僚だったら葬式といっても他人事でしょうが、しかし、たとえささいな遊びでも、キャッチボールを交わした相手の死というのはこんなもんだろうかと思ったものです。
こうした身近な死こそが、死に対する感情こそが、戦争の「痛み」「気配」を感じさせるものであるはず。
それが感じられなかった。

渡辺謙作監督の師匠筋にあたる鈴木清順監督流のお遊びは、おれは嫌いではありません。
ちょっとコメディなカリカチュア(戯画)な感じ。
けれど、それが中途半端なために、空回りの印象がありました。
異常にグラマラスで高圧的な町役場室長(余貴美子)や、米つきバッタのような室長補佐(飯田孝男)たちのせっかくのデフォルメの演技が、浮いて見えてしまった。
原作では、ふつうの日常にいつの間にかふつうの顔をして居座っている戦争が描かれていたわけですが、その町おこしの戦争が、異常な人たちが勝手に始めた異常な行為として、おれたちとは無関係なことのように見えてしまいました。

そしてまた残念だったひとつが、戦争マニアのおかっぱの男(辻修)。
情報と知識に通じたいわゆるオタクなのですが、今のこの時代の中で彼のような存在をよく見かける気がします。
北原が戦争のリアルを肌で知ろうとするのに対し、あふれかえった情報のインフレーションの中を巧みに泳ぎ、戦争をゲーム化して玩ぶ。
彼は原作でもサイコ(いわゆるキチガイ)っぽく描かれているのですが、映画ではそれ以上にいかにもという感じの画一的な描かれ方。
ほんとは彼は、異常とは思えない、ふつうの顔でふつうに町を歩いてると思うんですが。
たとえば、彼の親戚は、IT企業の社長の顔をして町にいるかもしれない。
しかし、そんな人物たちが、パターン的なデフォルメのために、リアルから遠のいてしまった。
そのためにおかっぱの男の死さえ記号的に見えてしまった。

雲1

虚構の中のリアルってあると思います。
大林宣彦監督の言葉で言えば、ウソの中のホント(まこと)というんでしょうか。

この間、「約束の旅路」という映画を観ました。
その冒頭の一場面。
難民キャンプの医療テントの片隅で、我が子の死を迎える母親。
凡百の表現ならば、単に泣き崩れるところを描くだけでしょう。
ところがこの映画では、その死んだ息子に抱きつくシーンの前に一瞬、1カット、母親の怒れる顔が映し出されていた(おれにはそう見えました)。
過酷な運命に対する怒りだったかもしれない。この世界に対する怒りだったかもしれない。
あるいは、医師に対しての怒り。
最悪の医療設備にも関わらずおそらく医師は最善をつくしたかもしれません。
しかし、そんな医師に対してだって、残された者は、たとえ一瞬にしろ怒りを転嫁してしまうものだと思います。
おれはリアルを感じて、一気に引き込まれてしまいました。
物語は事実に取材していますが、フィクションです。ラストなど、あざといほどの過剰な演出もあったりするのですが、そうしたリアルさのためにすべてが納得できてしまったのでした。

つまり、何らかの真実が、虚構をリアルに感じさせる。
カフカの一連の作品が身近にリアルに感じられるのも、そこに心理的な真実が描かれているからでしょう。
どんな荒唐無稽な幻想譚もリアルに思える。

映画「紙屋悦子の青春」もまた、戦闘シーンや爆撃シーンはありません。
閃光も戦火も見えない、銃声も一切聞こえないけれど、にも関わらず戦争映画でした。
桜の咲く隣りですすきが穂をつけていたりと、その風景も必ずしも現実的でなかったりします。
が、しかし、ていねいに描かれた家族の暮らしや人々の会話からは、その息づかいや体温、その葛藤や哀しみがリアルに伝わってくるようでした。
「現実の戦争の音を、光を、痛みを、気配を」リアルに感じられた気がするのです。
特攻として戦地へ旅立った明石(松岡俊介)の死の、その実際のシーンは登場しません。
葬式のシーンも回想シーンもなく、ただ友人からその死と手紙が伝えられただけです。
なのに、彼の死という現実は、どうしようもない痛みとして突き刺さるように感じられたのでした。

同じ町で起こった現実の事件にリアルを感じられず、スクリーンの虚構にリアルを感じるというのは、そもそも倒錯であるかもしれません。
しかし、現実を組み替えることが“物語”だとしたら、そこに内的真実があるとしたら、物語はリアルを伝えてくれるのではないでしょうか。
知識としてではなく、エモーショナルな体験として。
物語はたぶんそういうチカラを持っている。
だからこそ、戦争のリアルを知らない者でも、リアルの一端を感じることはできる。
戦争を知らないという危機感のリアルを共有することもできる。
その先の「自分の言葉として語ることができるかどうか」、そして「戦争に反対できるかどうか」の分岐点に至るのは、おれたち観客(読者)に課せられた仕事だと思いますが。

雲・輪

さてしかしながら残念なことに、映画「となり町戦争」からはそうしたリアルを、おれは感じられませんでした。
が、江口洋介、原田知世という役者の人間的な身体性というリアルは感じました。
「原田知世に肉体は欠如している」
という言葉におれは納得し、常々そう思っていたのですが、この映画では知世さん、身体性とその匂いを感じさせてくれたように思います。
そういう役どころでもあったのでしょう。
知世さんが演じた香西さんは、原作では、業務に忠実な“鉄の女”であり、その制服のような鎧(よろい)の隙間から見え隠れする人間性がエロチックでもあり魅力でした。
映画ではしかし、冒頭の方のシーンで、泣いているところを北原に見られて登場します。
内面的にミステリアスな鉄の女としてではなく、涙することもある、揺れる人間性を持ったひとりの女性として。
それは原作にはないラストへとつながる伏線でもあったのかもしれません。
そのため、テキパキと業務をこなすスーパーウーマンでありながら、その中の小さな少女のような人間“香西瑞希”がわかりやすく透けて見えました。
そして業務としてのセックスへつながる場面でも、町役場戦争推進室潜入員としてではなく、ただそこにいるだけで、ただのひとりの女としてそのかぼそい肉体と色香が感じられた。
それはやっぱり原田知世の姿であったでしょう。
リアルが混迷する時代の中で、それゆえ、リアルをつかみきれないひとつの映画作品の中で、その原田知世というリアルは変わらぬ光を放ち続けていたように思います。







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2007_06_26

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