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「プリンス&プリンセス」~明日、借金をしようかというときに観てはいけない

category: movie  

何年か前、「プリンス&プリンセス」の監督であるミッシェル・オスロ監督のアニメ作品「キリクと魔女」のオールナイト上映会に行きました。
その夜は台風がやって来るというのに、なぜかおれは自転車。まあ、濡れても夏だからいいやという気分で板橋から恵比寿までエッチラ、オッチラこいで行ったのですが、いや、その苦労の甲斐のある映画でした。
で、そのとき、座談会があって、「ハイエナの鳴き声はセクシーである」という大貫妙子さんのアフリカ話(ばなし)がめっぽう面白かったのですが、高畑勳監督の話も面白かったのでした。
(ちなみに、この上映会&座談会は「ほぼ日刊イトイ新聞」の企画で、座談会の模様が次のページにほぼ採録されています。)

「ほぼ日刊イトイ新聞『娯楽映画の運命』」
http://www.1101.com/kirikou_talk/01.html

高畑監督が言うには、「ハラハラ」と「ドキドキ」は違うというんですね(http://www.1101.com/kirikou_talk/03.html)。
「ドキドキ」は、物語がどう展開するかわからない。
一寸先は闇。
観客はその暗闇へ主人公とともに放り出され、次から次へと事件に遭遇してはドキドキし、敵に遭遇してはドキドキし……と、お化け屋敷の中を進むようにストーリーが展開する。
今の日本のアニメは、ほとんどこのパターンだといいます。
一方、「ハラハラ」は、物語の展開はあらかじめ予想がついてしまう。
だからドキドキはしないのだけど、その分、観客は「どうしてこんな事件が起きちゃうの?」「どうして敵はこんな悪い事をするんだろう?」などなど、あれこれ考える余地がある。
そして結末がたとえわかっていたとしても、観客はハラハラしながら、主人公に寄り添って、あるいは客観的に考えながらストーリーを味わう。
実際には、ひとつの作品の中にこの2つの要素は混在しているのでしょう。
しかし、パーセントとしてどちらの要素が大きいかは分かれるところ。
「キリクと魔女」はつまり後者の“ハラハラ”パターンだというわけです。
そして「プリンス&プリンセス」は、このパターンの最北あたりに位置するのではないでしょうか。

昔話は、そのスタイル自体が「ハラハラ」の典型ですね。
昔話には、聴き手に予想させたり、ストーリーの展開を先回りして見通しをもたせるような仕掛けがあります。
14年後、この赤ちゃんはお姫様と結婚するだろう(~グリム童話「金の毛が、三本あるおに」)などという“予言”も、予想をさせる仕掛けです。
この部屋の扉だけはけっして開けてはいけない(~グリム童話「青ひげ」)などという“禁止”も、聞き手には心惹かれる仕掛けです。禁止されればされるほど、聞き手は、きっと扉を開けちゃうに違いないぞという期待をもつことになります。
また、「この道をまっすぐに行くとお城があるから、そこにお入りなさい……」などと、きつねや誰かにアドバイスされてその通りに行動したりする(~グリム童話「金の鳥」)のも、物語の展開を予言するはたらきでしょう。
現代のドラマでは、こうしたアドバイスや、これから行おうとする計画が事前に語られた場合、実際には計画通りにはいかない、その予想を裏切る展開となるのがふつうです。
が、昔話では、何の障害もなくアドバイスや計画通りにコトが運んでしまうケースが少なくありません。
「プリンス&プリンセス」のエピソード「プリンセスとダイアモンド」で、王女が主人公に説明します。
砂時計の砂が落ちきる前に、ダイアモンドを拾い集め、首飾りにし、1個を怪物に投げ与え、王女に首飾りをかけることができれば呪いがとけるのだと。
こうした説明も、展開を先取りさせる仕掛けですね。
この説明を、パーゴラの台座にあるステンドグラス風の絵をさりげなく映しながら、視覚的にもわかりやすく語らせているのは、さーすが、オスロ監督。巧い!
そして、ダイアモンドを集める方法に意外性があるものの、まったく説明の通りにスムーズに物語が展開するのは、いかにも昔話らしいといえるでしょう。

さて、そうした予想や先取りをさせる仕掛けのひとつに、“くり返し”があります。
だいたい3回のくり返しが多いのですが、たとえば、「桃太郎」は1番目に犬と出会い、きびだんごをあげて家来にする。
2番目に猿と出会って、ほとんど同じ台詞をくり返し、家来にする。
…と、ここまでくれば、幼い子どもたちでも「また誰かに出会うんじゃないかしらん」と予想することになります。
また、たとえば「梨とりの兄弟」では、1番目に長男が山へ行き、沼の主に呑み込まれます。
2番目に次男が山へ行き、やっぱり沼の主に呑み込まれる。
そして3番目に三男が山へ行く。
…と、くり返されれば「また、どうせ呑み込まれるよ」と予測しそうなところなんですが、「いや、今度は呑み込まれないで怪物を何とかやっつけるにちがいない」という、ぼんやりとした、しかし確信に近い予想が子どもたちの中にあったりする。
予想通りになることで子どもたちは満足します。
また、予想を裏切る展開も子どもたちは楽しみます。
つまり、予想の通りになるにしろ、予想を裏切られるにしろ、その予想を投げかけられるすじみちがあること。それが「ハラハラ」しながらも物語を遊ぶ楽しさを生むんですね。

しかし、“くり返し”は、多くの場合、昔話や説話語りなど、口頭で伝えられるメディアで効果的なものです。
一回きりでは耳に残りにくい言葉や筋もくり返されることで印象づけられる。
あまりに何度もくり返されると退屈ですが、くり返しがリズムを生むことにもなります。
しかし、本など文字のメディアでは、一度提示されたセンテンスをそのまま同じに書くことは疎んじられます。
一度読者の頭の中に知識として取り込まれたことを、わざわざくり返し書き記すのは無駄。
一度読者の頭の中に知識として取り込まれたことを、わざわざくり返し書き記すのは無駄。
……と、こんなふうにくり返して書くのは無駄なわけです。
同じストーリーのくり返しも敬遠されやすい。
映像メディアではそれほどではありませんが、しかし、やはり同じ絵、同じシーン、同じ動きのくり返しは歓迎されないでしょう。
日本のアニメ黎明期であった「鉄腕アトム」を製作の頃の虫プロでは、制作費節約のために、同じ絵を使い回すシステムがあり、それがかえって面白い効果を生んだのだそうです。が、現在ではあまり多くは見られないような気がします。
特に「ドキドキ」を演出する際には、禁じ手でしょう。
しかし、この「プリンス&プリンセス」では、くり返しがくり返し多用されています。
シーンのくり返しは、様式的な美しさにもつながっている(たとえば、「いちじくと少年」のエピソード)。
そしてストーリーもくり返され、それが物語に安定した骨格とリズムを生むことに成功しています。
それには、単にくり返すのではなく、ヴァリエーションの巧みさが効いていて、そのあたりの楽しさもあると思います。

一般的に今の映画やアニメは「ドキドキ」タイプで、ネタばれを嫌います。
次にどんな展開が来るかを“知る”ことで興味をなくしてしまうからです。
ところが、昔話では、語り手が自らネタばれを提供しながらはなしを進めるのです。
聞き手は次の展開を半ば知っていたとしても、「ハラハラ」しながら物語を楽しむ。
物語の楽しさは、知ることだけではないんですね。
何度も読んでストーリーが頭に入っている──つまり、知っているはずの絵本の物語でも、子どもたちがくり返し「また読んで~」とせがむ理由のひとつはここにもあると思います。
つまり、聞き手の子どもたちは、一寸先は闇の、西も東もわからないお化け屋敷をめくらめっぽうに歩くわけではない。
目の前に、行く先の道が照らされている。
語り手は、聞き手に見通しをさせる仕掛けを用意して、その先を知らせながら、子どもたち自身の足で歩くように誘うわけです。
それは、予測し、考え、想像する力を鍛えることでもある。
そして原因と結果のすじみちをたどり、物語を味わうことでもあります。


その昔、「インディ・ジョーンズ」が公開された当時、あの映画は「ジェットコースター・ムービー」と言われました。
次から次へと息もつかせず事件がふりかかってくる。敵やトラップや困難が襲いかかってくる。
文字通り、手に汗握る「ドキドキ」の連続。
しかし、現在、あの映画を観てみると、そんなに言われるほどにはスピーディと思われないのではないでしょうか。
それほど、今は“ジェットコースター”な展開が一般化しちゃってる。
感覚が「ドキドキ」の刺激とスピードに慣れてきて、もっとハードな「ドキドキ」を求めている気がします。
この対極にあるのが、小津映画ですね。
スクリプターの中尾壽美子さんによると、小津安二郎監督は、先行ショットと後続ショットのあいだに、必ず16コマ(2/3秒)の間(ま)を入れるというスタイルを徹底させていたそうです(日本映画・テレビ編集協会編「映像編集の秘訣」玄光社MOOK)。
それだけゆる~い展開になるわけですが、もっと上手(うわて)がいて、衣笠貞之助監督では20コマ(5/6秒)。
あるとき、衣笠監督が編集の現場に来て言ったそうです。
「この間がいいんや。人間のひと呼吸はフィルム上では20コマなんや」
そして、
「台詞と台詞の間は20コマや」
と言いながら作業をされたとのこと。
正常な成人の脈拍が1回打つ間隔がちょうど20コマ分だそうで、中尾壽美子さんは、こうした人間の生理と関係があるのではないかといいます。
おれは衣笠監督の映画は観たことがないのですが、小津監督の作品を観るとわかる気がします。
ゆったりと呼吸をする間。
その間の中で観客は、登場人物たちのさりげない表情や、ちょっとしたしぐさにも、いろいろな想いを読み取り、余韻を楽しんだり、想像をめぐらせることになります。
まあ、「ハラハラ」はそれほどしないかもしれませんが、それが映画の味わいになるんですね。
「インディ・ジョーンズ」の「息もつかせぬ」展開とは正反対。
深呼吸をさせる展開であるわけです。


実は、おれは「プリンス&プリンセス」を観たとき、面白いことは面白いんだけど、なんかものたりない、なんかまだるっこしいなという感想を思ったのでした。
しかし、今考えると、おれはそうとう「ドキドキ」の感覚に毒されているのかもしれんなあと思います。
いえ、「ドキドキ」が悪いとか、「ハラハラ」がいいとか言うのではありません。
2つの要素に優劣はないと思います。
ただ、「ドキドキ」ばかりだと、ただ受け身的に、サスペンスやギャグに刺激されることを求めるだけ、そして展開を情報として“知る”だけでその物語を理解した気になる……ようなことになってはいまいか。

昔、ツル・コミックス社版の「ピーナッツ・ブックス」(チャールズ・M・シュルツ作、谷川俊太郎訳)の解説に、漫画家の故・永島慎二さんが原稿を寄せていたことがありました。
彼は最初、ピーナッツを読んだ時、格別に興味もわかなかった。
が、二度目に読んだらハマってしまって全巻買いそろえるほど夢中になったのだとか。
で、このマンガは、明日借金をしようかと算段しているような、そんなときに読んではいけない……というようなことを確か書かれていたと思います。(スイマセン、この本が今手元になく確認ができません。)
つまり、明日テストだとか、明日締め切りだとか、明日離婚の調停日だとか、そういう心に余裕のないときに読んでも面白さがわかりにくい。
チャーリー・ブラウンやスヌーピーたちの、あの点々の目の笑ってるんだか泣いてるんだかわからない、微妙な哀愁の表情をあれこれ想像したり、そのコンプレックスに共感して自分自身を振り返ったり、谷川俊太郎さんに訳された台詞の妙味を反芻したり──といっても軽いギャグマンガなんですけどね──という楽しみ方ができにくい。
おれはよくコンビニで週刊マンガ誌を立ち読みするんですが(店員のお兄さん、毎度ゴメンナサイ)、そうした立ち読みで読み飛ばすような読み方では、たぶん、味わえない魅力があると思うのです。
ピーナッツ・ブックスも。
小津作品も。
そして、「プリンス&プリンセス」も。

「プリンス&プリンセス」の6つのエピソードの途中に、1分間の休憩タイムが挟まれているのですが、DVDで、あのところを早回ししてしまうような余裕のない状態ではダメなんでしょうね。
深呼吸が出来る状態で、あれこれ想像したり、あれこれ子どもとおしゃべりしたり、そんな「ハラハラ」を楽しめる状態で観たとき、シルエットの微妙な表情や、今まで見えていなかった味わいが見えてくるものなのかもしれません。
おれは、そんな時間のときに、また観てみようかと思います。
これは、子どもたちだけじゃなく、おとなもくり返し楽しめるアニメではないでしょうか。


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2006_05_31

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