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映画「紙屋悦子の青春」「時をかける少女」~二番手でもラララ

category: movie  

「二番手」

ということを、黒木和夫監督が「紙屋悦子の青春」の撮影の現場で言っていたんだそうです。

「たとえ俺が二番手でもラララ、ま、そりゃしょうがない」

と、そういえば、関ジャニ∞(エイト)も歌っておりましたが(『イッツ・マイ・ソウル』)。

まあ、しょうがないかどうかはともかくとして、紙屋悦子(原田知世)は、二番手を選びます。
彼女は、ほんとうに一番好きな一番手の男と寄り添うどころか、手さえ握ることもない。
戦争は、男を死へと追いやります。
男は、彼女を託すかのようにもうひとりの男を薦め、悦子はその「二番手」の男と一緒になるわけです。
で、彼女はそれで幸福だったのか? 不幸だったのか?
前者だと監督は言います。
哀しみを背負いながらも、むしろ幸せな人生を生きたのではないか(雑誌「キネマ旬報」2006年8月下旬号・黒木和雄監督インタビューより)。

こうしたいわゆる三角関係は、昔からいろんな物語が取り上げてきました。
特にドロドロのメロドラマが好んで取り上げ、くり返し描くモチーフ。
嫉妬。裏切り。愛欲。友情の亀裂……。
たとえば明石(松岡俊介)は、死地へと赴く身であることを知りながら、自分の愛欲を遂げたその後に彼女を残して旅立つことも出来たはずです。
あるいは、駆け落ちして心中という選択肢さえあった。
またたとえば永与(永瀬正敏)は、愛するがゆえに嫉妬心に苛まれ、彼女と自分自身を傷つける人生を送ったとしてもおかしくはありません。
さらにたとえば紙屋悦子は、したたかに二人の男と関係を持ちながら生きて行くという選択も出来たでしょう。
しかしそうならなかったのは、知世さんがインタビューで再三語っていたように、
「それぞれが自分のことよりも相手の幸せを考えている」
というその一点にあります。
そのため、ドロドロの部分がいっさい切り捨てられ(そうした部分が内面にあったとしても)、スクリーンには、当時を懸命に誠実に生きた三人の原型的な姿しかありませんでした。
場当たり的、刹那的な愛ではなく、静穏な日常風景の中ににじみ見えていたのは、その愛の深さ、そしてその強さ。
そしてそれゆえに、戦争の不条理さがくっきりと際立ったのだと思います。

「こういう二番手の人との愛に生きるということは、どんな人間にもあることではないか」

と、黒木監督は語ります。
監督は、こうした生き方に、よくも悪くも欲望を抑制しがちな日本人らしさを感じ、そこに多くの人に共通する普遍性を見ています(同上インタビューより)。

もちろん、あくまでも理想的な「一番手」を追い求める純粋さと激しさもアリかもしれません。
「他の誰かに愛されるなら、あなたのために悲しむ方がいい」(by『早春物語』作詞:康珍化
という感情もまた普遍的なものでしょう。
明石ひとりへ一途に愛を捧げる“紙屋悦子”像というのも理解できるような気がします。
がしかし、「二番手」を選択するという生き方もまた、けっして妥協というわけではなく、おれたちに近しい感情として理解できるような気もするのです。
関ジャニ∞が歌うみたいに、ちょっとカッコ悪いけど、普遍的。
それゆえ、周囲を見渡しても、またたとえばいろいろな作品にも見られるのではないか。
……と、思っていたら、ちょっと似ている物語を思い出しました。
「ひとが現実よりも、理想の愛を知ったとき、
それは、ひとにとって、幸福なのだろうか?
不幸なのだろうか?」

という問いかけが冒頭に掲げられていたあの映画です。

雲・輪


映画「時をかける少女/1983年」でも、まだ幼いかたちではありましたが、一種の三角関係が描かれていました。
冒頭の言葉はいろいろな解釈も出来ると思うのですが、一般的には、「ひと」というのは、物語の中では、ヒロイン芳山和子(原田知世)であるでしょう。
そして彼女が知った「理想の愛」というのは、現代へやってきた未来人である深町一夫(高柳良一)と考えられます。
対して、「現実」の存在は、幼なじみである堀川五朗(尾見としのり)。
もしもタイムリープの事故というファンタジックな事件が起こらなければ、情緒あふれる静かな町で、和子は五朗とともにごくアリがちな青春時代を送っただろうことが想像されます。
あるいは、その現実的な日々の中で二人はごく自然に恋愛感情を育んでいったかもしれません。
しかし、そこに深町クンが現われる。
彼は、和子と五朗の想い出に介入し、和子の記憶に入り込みます。
現実的で非ロマンティックな堀川五朗“大博士”に対し、彼はロマンティック。
自分の変化にとまどい、不安を抱える和子の唯一の理解者であり、また、ミステリアスな部分を持った存在。
白馬に乗って、ではなく、タイムリープによって和子の前に現われた彼には、どこか王子様の面差しがあります。
けれども、彼は未来世界へと帰り、その「理想の愛」は失われる。
彼の存在に関する記憶さえ、奪われます。
にも関わらず、和子の無意識の中には彼のイメージが刻印されていたのでしょう、植物化学者だった深町の影を追うように、和子は大学の研究室へと進んで籠り、五朗からの誘いを断っている。
その姿は一途に「理想の愛」を追い求めているのですが、現実的には、「芳山和子の青春」を不毛なものにしている。
果たしてそれは幸福なのか? 不幸なのか?
──しかし、その答えは明らかにされませんでした。
彼女は結局「一番手」の深町クンを選んだのか、「二番手」の五朗チャンを選んだのか。それも、きちんとはっきりとは語られませんでした。
ただ、ラストシーンで和子と深町の再会が暗示され、そして余韻とともに物語は静かに閉じられます。

雲1


そのエンドマークから約20年後。
大林宣彦監督は、自ら脚本の筆をとりメガホンをとった作品で、あの問いかけに対するひとつの答えを示したのではないかと、実はおれはひそかに思っています。
「なごり雪/2002年」という作品です。
「時かけ」は少年少女を描いた、いわゆる「ジュブナイル」でしたが、これは、人生の半ばを折り返した世代の男女の物語。
中年期を迎えた男が故郷へと帰り、20数年前のジュブナイルの頃を振り返るというかたちでストーリーが展開します。
そこで回顧され、浮かび上がる少年少女の姿が、和子、深町、五朗の三人とどこか重なるのです。
恋愛に対してイノセントであり、それゆえまっすぐに思い詰めるタイプのヒロイン、園田雪子(須藤温子)。
二枚目的だけど茫洋としてつかみどころのない梶村祐作(細山田隆人、三浦友和)。彼は、雪子の恋心を知りながらそれを裏切るように、故郷を捨てるように東京へと旅立ちます。
対して、雪子を見守る三枚目的な水田健一郎(反田隆幸、ベンガル)は、その地方の町(大分県臼杵)に留まり、地道な人生を歩みます。
──恋するヒロインを置いて、都会へと立ち去る祐作と、未来へと立ち去る深町クン。
ヒロインを想い、故郷に根を張って生きる代々の酒屋の跡取り息子の水田と、代々の醤油屋の跡取り息子の五朗ちゃん。
つまり、「なごり雪」の祐作と水田は、「時かけ」の深町と五朗の20数年後の姿にも思えたのでした。

三作品のトライアングルをあてはめてみると、下図のようになるかと思います。

nibante


そういえば、ニューカレドニアに住んでいた小さな少女(峰岸美帆)も「雪子」という名前でしたね(映画「天国にいちばん近い島/1984年」)。
雪は、汚れた地面をおおうために神様が降らせるもの。だから雪の降る場所ではみんなキレイな気持ちになって幸せになる。ユキコのユキは、その雪なのだと語られていました。
大林監督の中にそんなモチーフが生きていたのでしょう。
雪が降ると幸福になるというこの言い伝えめいた話が、めったに雪の降らない大分県臼杵を舞台とした「なごり雪」でも生かされ、物語のキーポイントとなっていました。
「天国に…」の雪子の名付け親はおばあさんでしたが、「なごり雪」の雪子の名付け親もまたやはり彼女のおばあさん。
その祖母は、戦争のためにいちばん好きな人と添い遂げられなかったといい、つまりは彼女も紙屋悦子と同じように、戦争のために「二番手」を選んだ人生だったのでした。
しかし、孫の雪子に「おまえだけは、いちばん好きな人といっしょになってほしい」と伝えているところをみると、もしかしたら自分の選択を後悔しているのかもしれないことが匂わされています。
もしかしたら、おばあさんは不幸だったのかもしれない。
けれど、雪子は水田と結婚します。
彼女もまた、彼女の祖母と同じく「二番手」を選ぶ道をたどることになったわけです。
雪子はそれで幸福だったのか? 不幸だったのか?

20数年後、雪子は交通事故で瀕死のけがを負い、その報せを受けて祐作が東京から帰ってきます。
結局雪子はそのまま帰らぬ人となるのですが、残された祐作と水田は、3人のジュブナイルの頃の想い出を歩き、彼女の人生をたどることになります。
雪子の20数年間は、「この物語から削ぎ落とされた」とナレーションで語られる通り、映画の中には出てきません。
20数年後の雪子の姿も包帯に巻かれたまま、顔を見せません。
しかし、映画に語られなかった彼女の20数年間こそが、実はこの映画のテーマであるように思われるのです。
彼女は幸福だったのか? 不幸だったのか?
夫である水田は、彼女がいちばん好きだった祐作といっしょにならずに、自分と結婚してくれたということを負い目のように感じています。
地方の地道な暮らししかさせられなかった自分は、彼女を幸福にしてあげられなかったのではないか。
一方、祐作は、おそらくは後悔を感じています。
大学生となった彼は鈍感さと曖昧な気持ちのまま、東京で知り合った恋人とし子(宝生舞)を故郷へ連れ帰り、雪子は手首を切るという事件を起こすのですが、彼はそのまま、東京へ逃げ帰ってしまったのでした。
自分は、彼女を傷つけ、不幸にしたのではないか。

ところが、祐作と水田が雪子の暮らした故郷を歩き(もちろん水田の故郷でもあるのですが)、彼女の娘(長澤まさみ)と会っていくうちに(もちろん水田の娘でもあるのですが)、20数年来の誤解がほどけていきます。
雪子は手首を切ろうとしたのではありませんでした。
雪子は雪を降らせようとしていた。
枕の中の真っ白な発砲ビーズを降らせ、雪のめったに降らないこの世界を幸福にしようとして。
そして20数年、彼女は「幸せの枕」を作り続け、家庭を築き、娘を育て、一所懸命に生きたのでした。
「一所懸命」という言葉はもともと、鎌倉時代あたりの武士が先祖伝来の領地であるその土地を懸命に守ろうとしたことが語源なのだとか。
その言葉通り、彼女は故郷臼杵の地で、平凡でありきたりでつましい生活だったかもしれないけれど、その生活を彼女らしく純粋に、一所懸命に生きたのでした。
幸福は、何を指標とするかで千差万別、その意味も異なります。
経済的な成功を幸福と思う人もいれば、世間が評価する“勝ち組”となることを幸福という人もいるでしょう。
が、人々の幸せを祈り続け、一所懸命に生きた彼女の20数年間を、幸福と言わずに何と呼べるでしょうか。
そんな彼女の人生が、故郷の大地を離れて彷徨い、何かに急かされるように生き急ぎ、行き詰まった祐作の今(そしておそらくはおれたち観客の今、またおそらくは日本の今)を照らし出すことにもなったのでした。
おれが思う結論はこうです。
つまり、「一番手」である「理想の愛」を失ったとしても、「二番手」である、より現実的な愛と出逢ったことで、彼女は幸福を得たのではないか。

雲2


ところで、ふと考えてみると、
「理想の愛」と「現実の愛」
というのは、次のようにも言い換えられるのではないでしょうか。
「空想的な愛」「実践的な愛」
……なーんて、いや、スイマセン、実は今読んでる小説にたまたまこんな言葉が出ていたもんで、たまたま結びつけただけのことなのですが。
ですが、これらの言葉は、ひとつの側面を言い当てているように思われます。
「理想の愛」は、実際に存在するというよりは、心の中に描かれるもの。
想う(空想する)という行為の中で、至上と思われるかたちが理想となる。
対して、「現実の愛」は、たえず実践です。

実は今読んでる小説というのは「カラマーゾフの兄弟」というやつです。
前から新訳の評判がいいのを耳にしていて(亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫)、遅まきながら今頃やっとこさ手にして。
学生時代に読んではいたのですが、もうすっぽり記憶が抜け落ちていることにショックを受けつつ、ページをめくり。
で、上述の「空想的」「実践的」のくだりにぶつかったのでした。
これは、主筋から離れた一エピソードとして触れられているだけなのですが、たとえば、ある医師が語ったというこんな話。
──人類愛というような、人間への抽象的な愛には、情を傾けることができる。ヒューマニスティックな想いにかられて自分の犠牲を厭わないほど。
が、いざその個々の人間と顔を突き合わせるとなると、自尊心を傷つけられ、自由を圧迫され、いっしょに過ごすことなど一昼夜でさえ我慢ができない。
と、言うのです。
別の場面で、カラマーゾフ三兄弟の次男坊のイワンも告白しています。
──遠くの人間は好きになれるけれど、身近な人間は好きになったことがない。
彼は、隣人を愛せないというんですね。
というのも、皮肉屋のビアスに言わせれば、「隣人」というのはつまり、

「私たちのほうでは、命令(聖書の『おのれのごとく、汝の隣人を愛せよ』)にあるように、自分を愛するように愛しようとしているのに、あらゆる手を尽くしてその命令に背かせようとしている人」

であるからでしょう(ビアス「悪魔の辞典」西川正身訳、岩波書店)
遠くからながめていたら気がつかなかったエゴやズルさやアラが、いざ隣りに来てみると見えてくる。鼻につく。
そうした現実が、多かれ少なかれあると思います。

たとえばおれは、たとえミーハーであるにしても、こうして今、原田知世ファンの末席を汚しているわけですが、彼女がCMに出てくれば「ほら、鼻の下が伸びてる」と家人から注意され、彼女がラジオドラマをやるといえば、友達付き合いもそこそこに、いそいそと早めに帰宅するなどという、まあそんな、いい年こいたオッサンとしてはいかがなものだろうか?状態なことになっているわけです。
これはもちろん愛と呼べるようなたいそうなシロモノではありませんが、思いっきり「空想的」であることは確かです。
「空想的」である限りにおいては、自尊心を傷つけられることもなく、自由を圧迫されることもなく、しち面倒くさいことは避けられます。
そして、カッコもつけられる。
こうしてブログなんぞを臆面もなく書いているのも、万が一、if、もしや、知世さんが何かの拍子で読んでくれるのではないかという、髪の毛一本ほどの淡い期待があったりもするわけです。
だもんで、阿呆なことがバレませんように、いい人っぽく思われますように……という、イヤらしい気取ったカッコつけが、本人はありのままの文章のつもりで書いていても、もう全開でにじみ出てしまっている。
そんなカッコつけも、「空想的な愛」においては、理想として可能なんですよね。
ところが、すぐ隣りにいる「隣人」となるとそうはいかない。
手の内、心の内はバレてますから、「何、カッコつけてんのよ!」とツッコまれているうちはいいのですが、そのうち一笑に付されるか、無視されるようになってきます。
お互いにささいなことで角を突き合わせるようなことにもなってくる。
遠くの知世さんの前では紳士になれても、近くの隣人の前では「実践的に」あまり良い紳士にはなれなかったりもするわけです。

この「空想的な愛」「実践的な愛」について、小説中の人物、修道院のゾシマ長老は述べます。
──認められたい。感謝されたい。自分の誠実さを褒めてもらいたい。「空想的な愛」は、すぐに満たされるような成功を、手間ひまかけないで求め、みんなに見てもらおうとする。
対して「実践的な愛」は、たぶん報われることが少ないのでしょう、どんなに努力しても、むしろ目標から遠のいていくような気さえするものだと言います。
「実践的な愛」は、「仕事」であり「忍耐」であり、ある人に言わせれば「学問」でさえある。
修行と言ってもいいかもしれません。
このくだりは、なにげなく語られているだけなのですが、読み進めていくうちに、実は、この小説全体のテーマと響き合うものであるかもしれないことがわかってきます。
小説では様々なテーマが絡み合っているのですが、そのうちのひとつは聖と俗、魂の気高さと醜悪さ、高潔さと卑俗さの混在と葛藤と言えるかもしれません。
主人公であるアリョーシャ(カラマーゾフ三兄弟の末っ子)は、修道院の若き修行僧。
が、彼は先述のゾシマ長老から、遺言のように、修道院から俗世間へと出て行くように命じられます。
つまり彼は「実践的な愛」の体現者として、俗塵にまみれ隣人のすぐ隣りへと赴き、ドロドロの愛の現実を知り、苦悩していく。
その修行さながらの実践の記録が、この小説の大きな骨格となっているのでしょう。
そういえばプロローグでアリョーシャは、作者ドストエフスキーから「実践家」として紹介されていたのでした。

雲・輪


しかし、どうでしょう、もしも紙屋悦子が「一番手」である明石と結ばれていたらどうなっていたでしょうか?
いや、これはあくまで仮定の遊びの話なのですが。
しかしまた、もしも芳山和子が、深町一夫と再会の後、結ばれたとしたらどうでしょう?
あるいは、もしも園田雪子が梶村祐作と結ばれていたとしたら……?
彼女たちは、やっぱり望んだ通りの幸福をつかんだでしょうか?
──おれは、必ずしもそうは言えないような気がします。

物狂いと詩人、そして恋する者──彼らは想像で頭がいっぱいだ。
と、シェイクスピアの登場人物が言っていたものです。
恋する者は、どこの馬の骨かもわからない乞食女の顔にも、国を傾けるほどの絶世の美女の再来を想像するものなのだと。
その「真夏の夜の夢」では、妖精パックが「love-in-idleness」という花、パンジーを持って登場します。
この花を搾った汁を眠っている人のまぶたに塗ると、塗られた彼・彼女は、目を覚ました最初に見た人に恋をしてしまう。
喜劇「真夏の夜の夢」では、パックがこの恋の媚薬を使ってあちこちで騒動を巻き起こします。
恋をする者はおそらく誰でも、気まぐれな妖精パックにこの魔法の薬を塗られているのでしょう。
恋愛という感情には、多かれ少なかれ、魔法的な幻想──想像、空想という類のカケラが入り混じるものだと思います。
恋愛自体が幻想に過ぎないと断じる人もいるくらいですからね。
空想度の高い「空想的な愛」です。
相手を理想化する。恋そのものを理想化する。恋する自分さえ理想化する。
しかしながら、この愛すべきカン違いとも言うべき幻想がなければ、そもそも恋は始まらないし、ドキドキやトキメキも生じない。ロマンティックも生まれません。

結婚というのは、こうしたロマンティックな恋愛観からすれば、愛の成就であり、ゴールです。
(もっとも、結婚となれば、シビアな現実的な選択をする人も多いでしょう。が、どんなに打算的に考えようとも、その心のどこかには幻想の花の汁を何パーセントか含んでいるように思います。)
ところが、結婚を果たしていっしょの生活を始めたとたん、相手は最も近しい隣人ともなるわけです。
魔法がいつのまにか醒める。
すると、相手の人間的な現実が見えてくる。
エゴやアラや、それこそ「性格の不一致」も見えてきて、「結婚してみたら、こんなはずではなかった」ということになってくる。
つまり結婚は、「空想的な愛」の終点であると同時に、その瞬間から「実践的な愛」のスタートなんですね。
人間的な修行と忍耐が求められるわけです。

心理分析の故・河合隼雄さんは、たしか「人は、二度、結婚をする」という言い方をしていたかと思います。
実際的な、またロマンティックな愛の帰結としての一度目の結婚。
しかし、そこから始まる結婚生活の現実を通して、もともと異なる人間同士である相手を努力して理解し、認め、受け容れ、協力していく必要があり、そこから改めて魂の結びつき──精神的な二度目の結婚をするというのです。
しかし、二度目の結婚に至るまでには、おそらくは相当の修行が、けれど目に見えにくい努力が必要な気がするのですが。

さてつまり、紙屋悦子が明石と結婚したとしても、あるいは芳山和子が深町一夫と結ばれたとしても、必ずしもそれが全面的な幸福というわけではなく、そこには平凡ですが、やはりひとつの試練があるのではないかと思うわけです。
ロマンティックでより理想的な存在である明石の、より現実的な側面──必ずしも長所だけではない人間的な面──も含めた彼と向き合うこと。
つまり、「一番手」の明石と結婚することにより、「二番手」的な明石と改めて出逢い、二度目の結婚をすることになるのではないでしょうか。
「実践的な愛」を通して。
もちろん、最初から「二番手」の男と結婚しても、そうした過程が必要でしょう。
が、彼がより現実的なカッコ悪い面をさらしている分だけ、二度目の結婚に近いような気がします。

……と、まあ、少々、牽強付会気味で、現実から離れちゃったかもしれませんが、つまりはこうした心理的な普遍性が、「二番手」ということにあると思うのです。
理想を求めることももちろん必要だけれど、カッコ悪い現実とも向き合わなければならない。
「なごり雪」の祐作は、ヒロイン雪子の真実を知ったその後のラスト、見送りにきた水田に「これからどうする?」と聞かれ、別れ際に言います。

「一所懸命に生きるだけ」

彼の懸命に生きなければならない「一所」とは、今は故郷ではなく、彼の暮らすその場所であるしょう。
彼が結婚したとし子は、今は家を出て行ったと語られているのですが、できれば彼女とやり直すことはできないものか。
かつての祐作にとって、とし子は「一番手」で、雪子は「二番手」であったわけですが、今、とし子は「二番手」的な存在として最も近しい隣人であり、彼の「実践的な愛」の目標であるように思われます。
きっと誰にでも「一所」と呼べるような居場所があって、その場所の隣人たちと、おれたちは共に懸命に生きて行かなければならないのかもしれません。

雲・ハート


とはいえ、しかし、「人はパンのみにて生くるに非ず」。
バターだって、ちょっぴりは塗って欲しい。
毎日、来る日も来る日も単調にパンだけを口の中へ放り込む日々を過ごしていると、甘めのジャムやマスタードの刺激だって、ちょっぴりは欲しくなるもの。
「二番手」どころか、「四番手」か「五番手」くらいの立場のおれです。
しかも生活に追われ、時間に終われ、いつのまにか歳月が経ってみると、修行どころか、若い頃に夢見た「理想の愛」の面影さえ微塵も思い出せなくなっている。
なんか乾いちゃってる。
そんな時には、あの妖精パックの魔法の花の汁を1mgでもふりかけることが必要なのでしょう。
ロマンティックの搾り汁をほんの一滴。
たとえば、誕生日には何かするとか、たまには二人で散歩するとか、今さらとは思っても、そんなロマンティックのしづくを忘れないことが大切なのかも。
と、思ってはいるんですがねー。

で、やっぱり、“ロマンス”って、カン違いであろうと何であろうと、生きていくエネルギーであり、ダイナモだったりするんですよね。
だから、今度の知世さんのライブ、仕事を少々早退したとしても、大目に見て許して欲しいと思うんですけど……。





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