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アルバム「My Pieces」──声に出して聴きたい日本語のPieces(かけらたち) 

category: music  

「……Beat it! Beat it!……」

当時、客員研究員としてアメリカの研究所にいた正高さんが、同僚の車に乗ったとき、
そのラジオに流れていたのが、マイケル・ジャクソン……。

と、正高信男さんという、乳幼児についての研究をされてる方が、
おもしろいエピソードを書かれてました(中公新書「子どもはことばをからだで覚える」)。

ところが、そのマイケル・ジャクソン、正高さんの英語力をもってしても、
何を歌ってるんだか、歌詞がさっぱりわからない。
そこで、アメリカの同僚に意味を訊ねると、 
「Beats me!(かんべんしてよ)」
と、言われたんだとか。
ネイティブ・スピーカーである彼らも、歌詞の意味がわからないまんま、
聴いて楽しんでたんですね。
それが1984年。

日本では、そのずっと前から、日本語をいかにロックやポップにノセるかという課題があって、
たとえばサザンなんかの
“何を歌ってんだか、詞の内容はわかんないけど、リズムやメロディにのっててカッコいいじゃん”
というような詞がだいぶ定着してきた時期でしょうか。

だから、「ミス・ブランニューデイ(サザンオールスターズ/1984年)」も、
もし外国の人から、いざその歌詞の意味を訊かれたら、
日本語のネイティブ・スピーカーであるおれたちは、やっぱり
「Beats me!(かんべん、かんべん)」
と言う他はなかったと思います。

日本語だけど、歌詞の内容はわからないまま聴いてる。
これはバブル期を予感させる風俗を皮肉った詞だと意識して聴いてた人は、
あんまり多くはないかもしれません。

huusen-g.gif

そのちょうど1984年。
マイケルやサザンのそんな曲とは裏腹に、知世さんは、その初エッセイ「時の魔法使い」で、
こんなことを書いてました。
    
「詞の内容を理解して、すなおにそれを聴く人に伝えることが、わたしの『歌』です。」

 松任谷由実、大貫妙子、康珍化……といった作家たちが作ってくれた作品を歌う、
というスタンスで音楽活動をしていた、当時10代の知世さんの
それが彼女なりの「“シンシア”リティ(sincerity=誠実さ)」だったのでしょう。

たとえば「寂しい」という言葉が歌詞にあるとすると、その意味を彼女なりの理解のし方で、
きちんとリスナーに伝えようとする。
当時の歌からは、そのニュアンスがよく伝わってきます。

やがて、知世さんの「わたしの『歌』」は、そのスタンスや関わり方も、
一歩一歩大きく変わっていきました。
必ずしも“詞の内容をすなおに、いかに伝えるか”でなくなっていったことは、承知の通りです。

特に、鈴木慶一さんとの決定的な出会い以降、
クリエイティブなところで本格的に音楽活動を展開していく。
その中で、自分の個性(武器)でもある“声”を意識するようになったといいます。

それがもっとも端的に表われ、また、そのきっかけともなったと言えるのが、
アルバム「カコ」(1994年)でしょうか。

60年代の洋楽を中心に、
英語、フランス語、イタリア語の原語そのままにカバーされたこのアルバムでは、
“詞の内容云々”は、二の次、三の次。

たとえば「T'EN VA PAS」というエルザが歌う原曲は、映画のストーリーにからんで、
離婚していく父親に『パパ、行かないで』と訴える詞。
けれど、知世さんが歌う「T'EN VA PAS」を聴いて、
去り行くパパのことを思い浮かべる日本人のリスナーの数は、
うーん、天然記念物のアマミノクロウサギほど多くはないかもしれない。

むしろ、大貫妙子さんが「彼と彼女のソネット」として付した日本語詞のような、
たとえば恋人たちの世界をぼわあーっと思い浮かべながら、「声」の響きやニュアンスを聴いてる。


洋楽を聴くときって、そうですよね。
「声」を聴く。
そのニュアンスや情感、声の表情(また、そのメロディやノリ)を味わったその上で、
どんな内容なのか、歌詞カードの邦訳を読んだり、読まなかったり。

だから、たとえば、ラジオとかで親しんだ曲がカッコいいと思って、
いざ邦訳の詞を読んでみたら、内容があまりに軽薄でエライがっかりしたなんて経験、……ありません?
逆に、おもしろッ、こりゃ深イッとか思って、改めて聴き直して印象が変わっちゃったり。

……それで、ふと気がつくんですが、いつの頃からか、日本語の歌も、
こんな洋楽を聴く聴き方をしてるんじゃないかなーと。

マイケルやサザンがやっていた、内容よりノリや声を楽しもうぜという傾向が、
広く一般化しちゃってる。
中島みゆきさんとか、ブルーハーツとか、鬼束ちひろさんとか、ケツメイシとかいった人たちを除けば、
何を歌ってるんだか、その場ではよくわからない。
印象的なセンテンスや、リフレインはわかるんだけど、言葉がよく聞き取れない場合が多い。

で、歌詞カードを読んで、はじめて意味がわかる。
あるいは、映像に出るテロップの詞を読んで、はじめて内容がわかったりする。
といっても、日本語なんですけどね。

宇多田ヒカルさんの詞なんかには、言葉が聴き取れないというより、
日本語の自然な流れが崩れてるのがあります。

たとえば「この夜もコワクないのに」(宇多田ヒカル『Give Me A Reason』)という歌詞を、
ふつうなら「この夜も / コワクないのに」と区切って、二小節に振り分ける。
ところが、「この夜もコ / ワクないのに」と、言葉の途中でぶっつり切るものだから、
カラオケで歌いにくいったらありゃしない。

しかし、曲を聴くと、これがぜんぜんナチュラル。
もともとバイリンガルのヒッキー流だからできる力技なのかもしれませんが、
R&Bの英語的なメロディの流れに違和感なくハマッてる。
それだけ、日本語ロック、日本語ポップスが、浸透して定着しているということでしょうか。

雲・輪

ところで、冒頭の正高信男さんの著作によると、
人間って赤ちゃんのとき、言葉をまず“音楽”として認識するんだそうですね
(講談社現代新書「ヒトはなぜ子育てに悩むのか」、中公新書「0歳児がことばを獲得するとき」) 。

赤ちゃんたちは、「これはペンです」「あかんぼ、あかいな、あいうえお」なーんて教わって、
言葉を覚えるわけじゃない。
ふつうの生活ン中で、おとなたちに話しかけられる。
そのふつうの会話の中で、実はおれたちおとなは、声を上げたり、下げたり、
いわばメロディをつけたり、文節をくぎって、リズムをつけたりしてる。
その音楽的なポイントに反応して、赤ちゃんはだんだんと言葉を習得していくのだそうです。

だからでしょうか、子どもたちに語りかけるような昔話なんか聞くと、音楽的です。
岩手県の遠野を旅したとき、あるおばあさんの昔話を聞いたんですが、
これが独特の方言で、意味がよくわからない。
けれども、とつとつとしたリズムと抑揚が、聞いてて気持ちいいんスよ、これが。
で、音楽を聴くように、ずっと聞いてると、
細かい言葉の意味はわからなくても、ストーリーが確かに浮かび上がってくるようなのでした。
言葉には、“ミュージック”としての言葉があるのでしょう。


こんな話があります。
竹内敏晴さんという方の娘さんが幼稚園のころ、
詩人の谷川俊太郎さんの“ことばあそびうた”が大好きだったんだそうです。

「かっぱかっぱらったかっぱらっぱかっぱらった」
 
などなど、歩き回ったりしながら、大声で朗読(?)して遊んでいた。
で、この娘さんが小学校五年生になったとき、
その詩を声に出して読んでみてと竹内さんが促したんだそうです。
ところが、つっかえちゃって、つっかえちゃって、てんで読めなくなっちゃっていた。
幼稚園のときには、あれほどリズムにのって、おもしろそうに読んでたのに。

おれたちおとなは、言葉から意味や内容を読み取ろうとします。それが習慣になってる。
いわば“ロジック(理屈)”としての言葉といったらいいでしょうか。
けれど、小さな子どもたちは、意味も内容もなく、「音のまんまどんどん声を出して読んでいく。
何べんも読んでいるうちに、自然にリズムが生まれてくる。
すると意味もちゃんとはっきりしてくる」
のだと、
演劇やことばについての実践的な研究をされている竹内敏晴さんは書いています
(晶文社「子どものからだとことば」)。

つまり、呼吸やリズム、声の響きといった“ミュージック”としての言葉を感じとっていた子どもたちも、
小学校高学年くらいになると、“ロジック”としての言葉を読み取ろうとして、つまづいてしまう。
……のじゃないかなあと思います。

そして思うに、今の音楽の多くの詞が、
この“ミュージック”としての言葉で成り立っているのかもしれんなあと。
意味や内容よりも、リズム、ノリ、声。その響き。

それは、「声に出して読みたい日本語」という本がベストセラーになったり、
“詩のボクシング”といった朗読のパフォーマンスが注目されたりといった最近の動き、
“アタマで考える言葉よりも、カラダで言葉を感じたい”みたいなことと
無縁ではないような気もするのでした。

正高信男さんは、
「音楽は、理性の概念障壁をとり払い、人間の生の声(vox humana)に触れる媒体だ」
というショウペンハウエルの言葉を引いて、
やはり歌詞カードを見なければわからないGLAYの曲を紹介したりしているのですが(前掲書
「子どもはことばをからだで覚える」)、なるほどー。
理屈じゃないんですね、音楽は。

ま、知世さんの場合は、人間の生の声といっても、
天使系の“Voix Paradis(天国の声)”が混じってるかもしれませんが……。

angel

しかし、音楽にはいろんな楽しみ方があって、
おれたちは生活ン中でいろんな聴き方をしてると思います。

朝、出掛ける前。寝る前。
ドライブ。
パーティーみたいに場を盛り上げるとき。
たとえば、アルバム「Summer Breeze」なんかは、希望的には、リゾート地までは行かなくっても、
そこらの木陰かなんかの草むらで、ぼっけぇーと寝そべって聴きたかったり。
「カフェ・ミュージック」ってんですか、
コーヒーのこうばしい香りが漂う、カフェのちょっとざわついたテーブルのすみで、
ぼっけぇーと聴きたかったり。

で、そんなときって、歌詞をじっくり聴きたいわけじゃないんですよね。
“理性の概念障壁”なんて、ぱあーっと取っ払って、意味や内容なんかどうでもよくって、
声の響きやニュアンスを感じてたい。

……ただ。
ただ、そんなときにも、時々あるわけです。
一つのフレーズが、ふいに心のどこかにひっかかって、
その意味や内容がむしょうに心の琴線をかきならしたりする。

以前、そこそこに混みあう通勤電車の中、ウォークマンで聴いてたとき、
とつぜん、ぐっときちゃったことがありました。
いや、周囲の目が気になって、カッコ悪ッと思ったのですが、ぼろぼろ涙がとまんない。

知世さんの「青空(そら)の種子(たね)」という曲でした。
その時に初めて聴いたというわけじゃないです。カセットに入れて、何度も聴いてた。
けれど、ちょうどその時、その精神状態に、その曲がハマッたということでしょうか。
なんか、自分で自分を黒く塗りつぶしてるようなときだったから。

康珍化さんの歌詞がいい。
でも、歌詞カードで、詞を読んだだけでは、
たぶん、あれほど心動かされることはなかったんじゃないかと思います。

サウンドがあり、メロディがあり、声がある。
そのふるえがスピーカーから空気へ、空気から耳へ伝わり、それが、鼓膜をふるわせ、
脳神経のシナプスあたりをふるわせ、つまりからだの細胞一個一個をふるわせ、
そうして言葉の内容がストーンと心に落ちたのかもしれません。

そんときって、きっとココロとカラダを別々に考える二元論的な“おれ”じゃなく、
ゆさぶられたのは、ココロとカラダもひっくるめた“おれ”なんでしょうね。

で、そんときの詞の言葉は、たぶんロジックでもあり、ミュージックでもあった。
言葉には“言霊(ことだま)”という霊が宿ると信じてた古代の人たちの言葉も、
たぶんロジックでもあり、ミュージックでもあって、言葉はもともとそういうものなのかもしれません。
それが、なんかゆさぶってくる。

“生の声”の響きやノリやニュアンスを聴く音楽。
でも、やっぱり、その声が伝える言葉を聴きたい。内容も聴きたい。

知世さんは、言葉を削って、選んで、絞り込んで作詞するそうですが
(朝日新聞・2002年12月5日付インタビューより)、
そんな短い言葉だからこそ、その広がり、重さ、深さが聴こえてくる。

今回の「My Pieces」は、そんな言葉の内容、味わいを聴けるアルバムでもあると思います。
特に「Lullaby」なんか聴くと、そう思うなあ。
しみじみ。

かつて、約20年ほど前、“内容をすなおに伝えるのが、わたしの『歌』”と書いた少女の『歌』は、
その後、ずいぶんその姿を変えてきたように思います。
そのスタイルも、その表現も、その声も。
自分の可能性に気づきながら、一歩ずつ。一歩ずつ。
でも、実は、“内容をすなおに伝える”というそのシンプルな姿勢は、
もしかしたら、ずーっと変わってなかったのかもしれない。

……「My Pieces」を聴いて、知世さんの“人間の生の声(vox humana)”に触れながら、
ふとそう思うのでした。



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