スポンサーサイト

category: スポンサー広告  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--_--_--

こころの中のよからぬものが

category: others  

知世さんを「原田知世」でネット検索すると、時折、ヒドい記事にぶつかることがあります。
だいたいが、2チャンネル掲示板の書き込みの噂。
いったい何のことやらの誹謗中傷で、あまりのくだらなさ。馬鹿馬鹿しさ。
わざわざ取り上げることはないとも思うのですが、以前、おれはちょっと気になってたどってみたことがありました。
その噂をたどってみると、次のように整理されるようです。

(1)いわく、原田知世は某ロックグループのヴォーカリストと付き合っていた。
あるいは他のロックグループのヴォーカリスト、あるいは某ロックシンガーと付き合っていた。
(2)いわく、原田知世は淫乱である。
(3)いわく、原田知世には、SMの趣味、汚物愛好の趣味がある。

(1)については、夕刊紙、あるいは週刊誌のゴシップ記事などに書かれた通り。
信憑性はもともと相当薄いと思われるのですが、これが掲示板に持ち込まれると、結婚していた、離婚したという騒動にいつのまにか発展していたりしています。
(2)(3)の元ネタのソースは、今は廃刊となった「噂の真相」の一言ネタといわれる記事であるようです。
この一言ネタからスクープらしきネタが生まれたケースもあったようなのですが、2チャンネルと同様に玉石混淆。箸にも棒にもかからない、記事とはとても呼べたものではないガセや、噂とも風聞とも言えないような戯言も並べられているものです。
事実か事実でないかの確認はおろか、単なる噂ですよと断ることで、記者の責任も放棄されている。
それが、掲示板内で尾ヒレ背ビレが付けられていったようです。
(1)の噂と結びつけられてアレンジされたものも見受けられました。
まず、誰かがおもしろがってそのたぐいのことを書き込む。
くだらない誹謗中傷はスルーすればいいものを、別の誰かが驚いてみせたり、あおったりする。
すると、また別の誰かがしゃしゃり出て、「これが真実だ」「そんなの有名だよ」などと説明をしてみせる。
──たいてい、こうしたパターンが掲示板で飽きもせずくり返され、そして今も時々見受けられます。
つまり、「根も葉もないこと」なのですが、まがいものの腐った根っこがあったというわけです。
その腐った根っこに取り付いて病原菌が菌糸を伸ばすように、匿名であることの無責任さに隠れた一部の人々がおもしろがって葉を茂らせている。
興味深いのは、某作曲家が番組で知世さんと踊ったことがあるというのが、いつのまにか、作曲家と知世さんは関係をもったに変化していることです。
また、番組中、某漫才タレントがイニシャルトークで知世さんの噂を漏らしていたという書き込みが、いつのまにか、その漫才タレントと知世さんが関係をもったと変化していたりします。
人の噂というのは、そういうものなのでしょう。
さらに、自称“業界人”と名乗る者や、風俗関係者の友達から聞いた、身内に関係者がいるなどと前置きされた書き込みがあるのですが、内容は、以前に書き込まれた記事をなぞるか、あるいは、明らかに嘘とわかるようなアレンジを加えたものにすぎないことが多いようです。
「これが真実だ」というのは、つまり、一部のネットに書き込まれたという事実が真実であるに過ぎない。
「その話、聞いたことがある」というのは、つまり、一部のネットの中で聞いたことがあるだけ。
「そんなの有名だよ」というのは、つまり、一部のネットの中で有名なだけに過ぎないんですね。

それがネットの外に飛び火する。
某漫才タレントがイニシャルトークで噂していたという内容は、ネット内に流れていた一言ネタのくり返しに過ぎません。
関西のローカル局のラジオで某タレントがしゃべっていたという内容も、同様に既存の噂の後追いです。
おれは雑誌のゴシップ記事などはよくわからないのですが、たとえば、「噂の真相」2001年6月号でのSM業界人の匿名座談会というのをのぞいてみても、内容は、一部ネットで流れている噂話のくり返しにとどまっています。
他の記事も推して知るべしでしょう。
以上は何年も前の話ですが、一部のネットではいまだに騒がしいようです。
ここ1年ほどでも、2チャンネル内に限らず、都市伝説かなどと、ブログで書き立てるような者が現われたり。
わざわざニュースサイトで、人の趣味はいろいろなどと書き飛ばすような者が現われたりしています。
それにしてもです。
事実として根も葉もないところに、なぜ、こんな病葉(わくらば)がはびこっているのでしょうか?
デタラメを鵜呑みにした冗談にもならない冗談が、なぜ、まかりとおっているのでしょうか?
それには、上記のような馬鹿な噂が、知世さんとまったくかけ離れているということがあるでしょう。
その意外性の取り合わせをおもしろがっている。
そしてそこに、デマを伝える人々のある心理が反映されているように思うのです。

つまり、補償という心理機能。
この言葉は、心理学のいろいろな場面で使われるのですが、たとえばこんな例によっても使われます。
19世紀のヴィクトリア朝時代。
この時代は、イギリスだけでなく、アメリカでも厳しい道徳や、上品さ、倫理的な高潔さが尊ばれました。
下品さや猥雑さは忌むべきものとして排除された。
たとえば、「胸(breast)」という言葉も、性的だといわれ、タブー視されました。
「足(leg)」という言葉さえ、性的なイメージを匂わせるということで、日常では使うことができませんでした。
だから、料理や買い物をするときも、鶏肉の胸肉は「breast」という言葉は使われず「white meat」と言い換えられ、もも肉も「leg」という言葉は使われず「dark meat」などと言い換えられていたのだとか。
ちょっとエッチを匂わせそうな表現というだけで、エッチでも何でもない言葉すら敵国語扱いだったんですね。
それほどに道徳的な厳格さが重んじられ、性的には無垢で、気品のあることが美しいとされる風潮があったんだそうです。
しかし、地下(アンダーグラウンド)では、この時代ほど、猥雑な文化が発達し、隆盛を極めた時代はない。
裏では売春が横行し、ポルノグラフィの黄金時代と言われたのもこの頃。
つまり、人間についているのは、上品な言葉をしゃべる唇や分別のある頭ばかりでなく、下半身も立派についていて、時には下品な、時には猥雑なことだって、行いもすればしゃべりもするというわけです。
ふつう、それは適度にあらわれ、バランスが保たれています。
おじさんが、たわいのない下ネタを言って失笑と冷笑を買うのも、それが適度ならば、仕方のないことなんですよ、周囲のみなさま。
しかし、あまりにも一つの側面だけが行き過ぎて強調されると、抑えつけられ、締めつけられた側面が出所を失い、どこかで噴出しようとする。
過度に抑圧された機能が、補償を求めるんですね。
フロイドがヒステリーの原因を、性的な抑圧ということに求めたのも、彼が臨床医として働いていた時代のこんな背景があったという説があります。
事実、この時代には、性的な理由が原因と思われるヒステリーが多かったんだそうです。
「Victorian」は、「ヴィクトリア朝の」という意味の形容詞ですが、同時に慣用語のようになっていて、「偽善ぶった、上品にとりすました」ということを意味します。

さて、つまり、知世さん本人とは関係なく、知世さんのイメージが一人歩きしていると思うのです。
──清純。清楚。清潔感。透明感。純粋無垢。真面目。気品。貞潔。
こうしたイメージは知世さんの個性の一部でもあると思われますが、これがあまりに過度に強調されると、受け手側の中に反発が起こってくる。
軽い嫉妬心が混じる場合もあるでしょう。
「……その年齢で、いまだに清楚というのはおかしいじゃないか。芸能界は汚いところ。裏側で何をやっているか、わかったものじゃない」
「……そんなとりすました顔してたって、陰ではよからぬことをしてるんじゃないの」
無意識的なそんな感情が噂の中に盛り込まれる。
それが補償的にはたらくと、思い切り猥雑な汚いイメージと結びつけることで、上品さを貶め、清純さを踏みにじり、歪んだカタルシスを得ようとする。
妄想ともつかない噂がいまだにおもしろがられているのは、一部の人々のこうした心理が反映されているためと思われます。

では、知世さん自身はVictorian(ヴィクトリア朝的=偽善的)なのか?
というと、これは、No。
CMやイメージだけでしか見ていない人はともかく、作品やその声を通じて知世さんに接したことのある人であれば、Noと答えるのではないでしょうか。

“人間”原田知世は、“女優”原田知世の場面にも如実にあらわれていると思いますが、やはり端的にわかりやすいのは、音楽の場面でしょう。
1990年のアルバム「Tears of Joy」は、知世さん22歳のとき。
知世さん作詞のその表題曲は、美化されているとはいえ、a love affair後に迎えたその朝を歌ったものです。
──朝の陽射しを受けた素肌のままの男女。幸福感に包まれた涙。
この詞の光景が、実体験に基づいたものか、フィクションであるかは問題ではありません。
22歳の女性の心象風景として真実であり、それがストレートに語られているということです。
誰に指図されることもなく、自らが語っている。
アルバムのプロデュースは、透影月奈(るな)さん。であるから、知世さんとは文字通り、一心同体の存在の方ですね。
松田直さん、武部聡志さんというスーパーバイザーを得た上でのことですが、セルフ・プロデュースに等しい。
ここには、少女というかつてのアイドル的なイメージから脱したいというプロデューサー自身の思惑もあったかもしれません。
が、語られているのは、背伸びをするでもなく、ワルぶるでもなく、ごく素直な、憧憬も含めた心象風景。
ハイティーンの頃のアルバムで、たとえば大人っぽく振る舞う都会的な女性や、「娼婦」に扮して戯れるような、あるいは官能的な女性を、着せ替え人形的に演じ、逆にそれが彼女の少女性をあぶりだしていたのとは異なるやり方で、彼女は成長のステップを踏んでいったのではないでしょうか。
この頃の“作詞家”原田知世(あるいは“作詞家”透影月奈)には、レトリック的に“ねらう”ところが見られます。それが彼女の資質のひとつでもあると思われるのですが、その核のところには、素直さ、率直さがあります。
以降、鈴木慶一さんと出会い、音楽作りの中で言葉を選択し、イメージを構築していったり、やがて、アルバム曲すべての作詞を自分で手がけ、自分自身を改めて見つめていったりするわけですが、その核のところは変わらないように思います。
素直に、率直に、自然に。
それは、恋愛がテーマの詞においても顕著です。
ストレートに「恋をしよう」というような。
ここに、清純ぶるようなとりすました偽善や、あるいは何か屈折した心情を見いだすことは困難です。
そして、詞世界では、迷いや憂いといった自らの負の部分をも、まっすぐ率直に見つめています。
概してポジティブな姿勢の詞が多く、それは生来の性格にも依ると思われます。が、それは安易なポジティブ礼賛ではなく、彼女なりに負の悩みをくぐりぬけたポジティブであるのです。
こうした人間性は、たとえばインタビューの言葉の端々にもうかがえるように思います。
近年でこそ、自分の立ち位置がブレないようになってきた…みたいに自信をもって答える姿が見かけられますが、時に音楽に悩み、演技に悩みといった自分を、その時々にまっすぐに語っていました。

また、インタビューの端々にうかがえるのは、家族や友人の存在ですね。
人は、自分で自分自身を見ることが出来ないので、他者を鏡として自己を見る。
……というようなことを言ってたのは、マルクスでしたっけ。
しかしながら、権力や欲得がからんでくると、その鏡はしばしば歪んでくるものです。
ことにアイドルとか、スター女優などと呼ばれる場合、周囲の人々に映る自分自身の鏡は歪みがちになるのではないでしょうか。
おだてられ、チヤホヤされることに馴れたその種の人々が、傲岸不遜さを身につけていくというのは、昔からよく言われがちなワン・パターンですが、パターンとされるほどに一種普遍的といえます。
が、知世さんの家族や近しい友人は、どうも常にニュートラルな視線と反応で知世さんを見ている気がします。
知世さんは、そうした周囲の人たちに進んで何かと相談し、相談することで自分の考えをまとめていく傾向があるようです。
そこに見られるのは、信頼し、信頼されている関係。
そして、彼女はそうしたまっすぐな鏡に、良きにつけ悪しきにつけ、等身大の自分を見て常に確認している節があります。
他者の眼で、客観的に等身大の自分を見ている。
これはファンの欲目かもしれませんが、彼女の言葉や仕事の端々を見ていると、どうもそう思えるところがあるのです。
20年以上も芸能界に籍を置きながら、いまだに水に染まらない、馴れていない感じがするのは、こうした家族や友人のあいだに暮らしているということもあるのではないでしょうか。
特にお母上の影響は大きい。
インタビューでも、お母上の言葉がさりげなくはさまれることがあります。
それは飾りのない何気ない言葉だったりするのですが、人生の知恵というか、地に足をつけたこころの豊かさのようなものを感じさせてくれます。
そうした普通な生き方、“まっとうな”生き方が、見方によっては、清廉潔白、品行方正なイメージとつながるのかもしれません。
が、それは単に、スキャンダラスな、破天荒な生き方とはやや縁遠いというだけであって、ただ普通に生活しているだけ。
その普通さに意味があると思うのですが。

つまり、知世さんの人間っぽい実像とはかけ離れたところで、「水清ければ魚棲まず」なほどに、“清い”というパブリック・イメージが増殖、肥大化していると思うのです。
そのあたりが、補償的にダーティなイメージを持ち込もうとする悪意に対して隙を与えてしまうところ。
まあ、悪意ある噂をおもしろがる一部の人々は、ただイメージをながめているだけで、知世さん自身を何も見ていないということになるでしょうか。
しかしながら、それは確かに個性の一部でもあり、仕事をしていく上でのプラス面。
が、同時に、女優としての役の幅を狭めるマイナス面でもあります。
清純派女優といわれた原節子さんは、往時、「けものの匂いがする」といわしめるほどの演技を評価されたそうですが、知世さんにはけものの匂いが薄いような気がする。
いえ、詞の世界からは、結婚前にいい恋愛を経験したんだろうなあということをうかがわせます。
が、けれど、噂の十分の一ほどでもいいから、ドロドロした恋愛体験をしていたならば、たとえば濡れ場を演じるときでももっと艶っぽくなるのになあと、おれは思ってしまいます。
しかし、その種の艶かしい演技を期待できないところが知世さんなのかもしれません。

噂というのは、たいていの噂話がそうであるように、それを伝える人のこころを投影するものです。
知世さんのことを語っている噂のようでいて、実は、それをおもしろがる人々の内面が映し出されているに過ぎなかったりする。
ネットの掲示板などを見ても、もはや事実云々はどうでもよく、ただ人々のこころの中のよからぬものが吐き出されているに過ぎない。
おもしろおかしく興じるようでいながら、匿名の無責任の裏に隠れて、人を貶め、傷つけているだけ。その事実にそろそろ気づいてもいいように思います。
──と、ここにこんなことを書くのも、あおることになってしまうのでしょうか。
むなしいです。



スポンサーサイト

2006_07_02

Comments


 管理者にだけ表示を許可する

06  « 2017_07 »  08

SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

プロフィール

porepore。

Author:porepore。

ブログ内検索




page
top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。