えーと、いわゆる、なんていうか、O3(オースリー)な日々。

原田知世さん(=O3《オースリー》)にまつわる事どもを、 ミーハーなファンが書き散らかしています。

原田左斗志句集より(3)

原田左斗志さんの句には、暮らしておられた長崎にちなむモチーフが登場します。
「船渠(せんきょ)」──長崎造船所のドック。
赤い建物が特徴的な、いかにも中国らしい「支那寺」。
外人墓地に関連する「寝墓」。
「原爆図」。「原爆忌」または、長崎の原爆の日である「浦上忌」。
「切支丹(キリシタン)」、それに関連する「弥撒(ミサ)」。「磔刑」など。
中には、「出島」など、長崎の地名が記されているものもあるのですが、
そんなひとつが、「善長谷」という場所です。

おれは、カソリック信者の叔母に付き添って長崎を旅したとき、
この場所を訪れました。

江戸時代後期の1804年。
長崎市の北の岬にある西彼杵郡三重郷樫山(現・長崎市三重)で暮らしていた
隠れキリシタンの6家族が、旅芸人を装いながらの流浪の末、この地にたどり着いた。
──と、善長谷にある立て看板は説明しています。

彼らはお寺の檀家に入り、神社の下働きをすることで、住みつくことを許されます。
そんな彼らは仏教徒であり、キリスト教の立場から見れば、異教徒。
異教徒のことをスペイン語で「ゼンチョ」と発音することから、
「ゼンチョ谷」「善丁谷」「善長谷」と呼ばれるようになったのではないかと
いわれているそうです。
(菩提寺の僧がこの場所で、厳しい座禅の修行を行い悟りを開いたので、
「禅定谷」と呼ばれ、それが「善長谷」となったという説もあります。)

しかし彼らは仏教徒を装いながらも、実はやはり隠れキリシタンであり、
弾圧をくぐり抜け、その信仰をこの地で脈々と守り続けてきたのでした。

今は、小さな、けれど美しく立派な教会が、山の上でこの場所を見守っています。
山の中の急な坂道を幾重も登ると、汗だくの旅人を、
その善長谷教会の白い十字架が迎えてくれます。
(訪ねた当時は7月の暑い盛りで、おれも叔母も汗びっしょりとなりました。)

zencho-2.jpg 

そんな善長谷で、原田左斗志さんが句を残しておられます。





長崎県善長谷
yasonoie.gif 
原田左斗志「天に滴る葡萄群」より




ここで「耶蘇の家」というのは、もしかしたら、
キリスト教を信仰されている近所のお家と考えられるかもしれません。
左斗志さんは、そこの家人とお知り合いか何かで、
談笑などしているところをアゲハ蝶がのぞいていた……と。
いえしかし、もしかしたら、「耶蘇の家」は「教会」と考えてもいいように思います。

おれと叔母は、山の上の善長谷教会へ登る前に、ふもとの深堀教会へ立ち寄りました。
叔母がそこで祈りを捧げ、おれも教会に入ることを許され、付き添っていました。
すると、開け放たれた窓から、ひょっこり大きな蜂(あれはクマンバチだったと思います)が
飛び込んできたのです。
耳の悪い叔母は気づきませんでしたが、ぶうん、ぶううんと、迫力ある羽音でうなりながら、
祭壇のあたりをゆっくりと旋回しはじめました。
が、悪意はまったくなく、こちらもあわてる素振りを見せなかったせいか、
彼は、いつもの散歩道を通り過ぎたという体(てい)で、ゆうゆうと窓から出ていきました。
もしかしたら彼も、教会へ祈りに来たのかもしれません。
そんな彼を、何も言わないキリスト像はやさしげに見守っていました。

おれと叔母が善長谷教会へ到着したのは夕方間近で、こちらの教会には誰もおられず、
中には入りませんでした。
しかしもしかしたら、原田左斗志さんがここを訪れた当時は、教会の中にいて、
ひょっこり来訪したアゲハ蝶に気づき、この句を詠んだようにも思われます。

おれたちが旅して巡った長崎の教会には、そのどれにも、
豊かな自然の中に開放された、そして清澄な空気感がありました。
クマンバチやアゲハ蝶がひょっこり飛び込んできて、ごく自然にミサに参加していそうなのです。
そんな空気感も、この句から感じとれるような気がします。

また、もしかしたら、ひょっこり教会をのぞきに来たのは、イエス・キリストその人で、
その彼が、アゲハ蝶の貌(かお)をしていた──アゲハ蝶に身をやつしていた……
というような想像もアリかなあ、という気もしたりします。

zencho-3.jpg 


この善長谷というところは、
長崎好きの作家・遠藤周作さんのお気に入りの場所のひとつだったようです。
その小説「女の一生〜一部・キクの場合〜」では、「ゼンチョ谷」と呼ばれ、
ヒロイン・キクが悲劇的な死をとげて後、この地に墓が建てられることになっています。
そこでは、善長谷はこう語られています。

「急な山路をのぼると、そこから眼下に錫(すず)のような海がみえた。長崎湾の沖になる海は針をまきちらしたようにキラキラと光っていた。」
──遠藤周作「女の一生〜一部・キクの場合〜」新潮文庫より

なるほど確かに、そんなふうに長崎湾が一望できました。

zencho-1.jpg 

上の写真は、善長谷教会の前から撮影した1枚。
夕陽間近の斜めな陽射しの中、向こうに見えるのが長崎湾です。
手前にあるのは、樹にしつらえられた慎ましやかなアンゼラスの鐘です。
その鐘を詠ったのが、次の句。






隠れキリシタン善長谷
seisyouwo.gif 
原田左斗志「天に滴る葡萄群」より




「聖鐘」は、「せいしょう」と読むのでしょうか。

おそらく左斗志さんは、ここを何度か訪れていると思いますが、
この作句のときは、春だったんですね。

1856年の「浦上三番崩れ」の大弾圧のときには、
ここの隠れキリシタンの人たちも、厳しい迫害と酷い拷問を受けたといいます。
「浦上四番崩れ」が起こった、明治維新も近い1867年は、
「女の一生」のキクが生きた時代ですが、この時にも大きな影響があったでしょう。

明治になって禁教が解けてから何年もたった1895(明治28)年。
ようやくここに教会が建てられます。
それが老朽化したため、1952(昭和27)年に再建。
その完成を迎えたとき、神父さんは、少ない戸数の信者だけで、
よくこんなに立派な教会を建ててくれたと感謝したそうです。
それが、今の善長谷教会なんですね。

その教会を、「天国にいちばん近い教会」と呼ぶ人が多いのだとか。
なるほど納得です。

人々が苦難の日々を重ねたその土地は、今、
激動の悲劇を生きたヒロインを安らかに眠らせるとしたら、
その場所はここしかないと作家が感じたような、
そんな穏やかで、平和な、美しい場所となっていました。

句には、そんな“平和”があふれています。

薄緑色の芽があちらこちらで顔を出し、木の枝々を彩る。
平和の鐘を吊るす、そんな1本の樹を中心にした牧歌的な情景が広がるようです。

できればそんな季節に、再びここを訪れてみたいと思います。










スポンサーサイト


  1. 2018/01/17(水) 07:00:00|
  2. people around her|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

原田左斗志句集より(4) | ホーム | 「刑務所の原田知世[Tomoyo Harada and Itabashi Redemption]」

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://porepore4989.blog68.fc2.com/tb.php/67-51854620

| ホーム |