スポンサーサイト

category: スポンサー広告  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--_--_--

「紙屋悦子の青春」~波の音──生命(いのち)のざわめき

category: movie  

映画の中で何度か、紙屋悦ちゃんは波の音を聞きます。
正確には3回ですね。
うち2回は、紙屋家自宅で。
自宅は鹿児島県出水市米ノ津町という設定だそうで、たしかに米ノ津町は天草諸島を望む八代海に面しています。
が、劇中の台詞では、紙屋家は海から遠かったと語られていて、波音が聞こえる距離ではないようです。
もう1回は、その何十年後かの九州のどこかの病院の屋上で。
そこから眺められる夕陽の山の向こうの方に海があるかもしれんねーなどと会話で語られる通り、こちらも波音が聞こえる距離ではないようです。
では、悦ちゃんが聞いたのは幻聴だったのでしょうか? あるいは耳鳴り?
耳鳴りだとしたら、高血圧や脳動脈硬化症を疑うべきかもしれ……って、いやいやいや、笑えないボケをかましてる場合じゃないですよね、やはりこの解釈というか、何を感じるかは、観客それぞれに任せられているのでしょう。
おれは、この潮騒は、なんていうか、自然の営みのことであるように感じました。

ネイティヴ・アメリカンのナバホの人たちは、母なる大地のスピリット(精霊)の存在を、心だけでなく体だけでなくその両方の、いわばたましいに実感として感じるそうですが、ちょうどそんなふうに、悦ちゃんも海のざわめきを聞いたのではないでしょうか。
わだつみ(海の神さま)の強く静かな鼓動を。
潮の満ち引きは月の動きによる。
たとえばそんなふうに、海は月につながり、宇宙につながっています。
人もまた地球に生きる生物として、身体的生理的に宇宙につながっているのでしょう。
たとえば、月の満ち欠けが出生率や死亡率に影響するというのは、必ずしも単なる俗説というわけではないようです。
「人も獣も天地の虫」であるように(←坂本龍馬の言葉。山田風太郎原作、知世さん出演のドラマ「からくり事件帖」に使われてました)、人間一匹はちっぽけな存在であっても天地宇宙の一部なんですね。
そうした宇宙の営みである波の音を、悦ちゃんは、自分の内なる自然の声として聞いたのではないかと思うのです。

ところで、「元気」という言葉のもともとの意味って、元の気──「天地間に広がり、万物生成の根本となる精気」(by 広辞苑)ということなんだそうですね。
人間個々の“気”を、そんなおおもと(元)の天地自然の“気”に一致させたとき、人は「元気」になれるのだという説をどこかで聞いたことがあります。
また、それとは別に、五木寛之さんは「元気の海」というイメージを説いていました(「元気」幻冬舎文庫)。
人は、天地自然のおおもとの「元気の海」から生まれ出て、水蒸気となり雲となり雨となって大地に降り立ち、そして山野に注ぎ、流れ、大河の一滴となり、その旅路の果てに「元気の海」へとまた還っていくというのです。
命が生まれいずる場所。命が死にゆく場所。
その円環のおおもとの宇宙、母なる自然の海。
悦ちゃんが聞いた波の音は、あるいは、そんな「元気の海」に寄せては返す絶え間ない営みの鼓動だったのかもしれません。
その響きを聞いていると一人でもさびしくなくなったと劇中の回想で語られている。
そんな母なる海の声。
生と死をも含んだいのちの営み。


黒木和雄監督は、記録映画畑の出身であり、リアリズムの人です。
そのディティールは細部に至るまで写実的であり、物語は現実的です。
しかし、その作風には、意外にシンボリック(象徴的)な表現が多い。
おれは監督の記録映画や初期の作品を観たことがないのですが、もしかしたら、記録映画さえシンボリックなのではないかと訝(いぶか)っています。
特に、この「紙屋悦子の青春」では、もともとの脚本のせいもあるのでしょう、いろんな枝葉が削ぎ落とされ、よりシンプルに、よりシンボリックになっている。
(そのためでしょうか、建物背景などの美術はリアリズムの追求というよりも、ちょっと様式的な舞台セットっぽくなっているような気がします。「父と暮らせば」ほどではありませんが。)
「美しい夏キリシマ」が、監督自身の体験を中心に、戦争を生きた様々な人々のオモテとウラを描いた群像であるとするなら、「紙屋悦子の青春」は、そんなごった煮の上澄みをていねいにすくいあげ、しかし濃厚な味わいをもつ透明なスープのような物語であるようです。
ここでは、戦争中、そこここに見られたであろう様々な悲劇──飢えであったり、愛する人の身近な死であったり、あるいは組織の歪みや人間の醜さといったもの──に、あえて照明は当てられていません。
登場人物は5人のみ。
そして、ただ、明石(松岡俊介)の戦死だけが語られ、そこに、すべての悲劇が集約されます。
この悲劇は声高には語られず、日常の延長の身近なところにぽっかりと見えている。
明石の死は非常に個人的な出来事なのだけれど、この映画の中での彼は、戦争で命を亡くされた普通の人々の代弁者のような存在でもあるのではないでしょうか。

おれは映画を観た後で永瀬正敏さんのインタビューを読み、知ったのですが、紙屋家へ通じる道にある坂、あれは、あの世とこの世を分ける境目をイメージして作られたんだそうですね。
だから、坂のあたりの電信柱は、十字架のかたちになっている。
製作した美術の木村威夫さん自らも、そのシンボリックな表現の意図をテレビ番組で語っておられました。
おれは電信柱のかたちにはまったく気づきませんでしたが、同じ構図、同じショットの中を、明石が行き、永与(永瀬正敏)が来るという描かれ方に、その坂の向こうの漠とした異世界的な雰囲気をぼんやりと感じました。
あの坂は、黄泉津平坂(よもつひらさか)だったんですね。
黄泉(死の国)とこの世を分けるという。
古事記では、坂にしっかりと大岩が置かれ、あの世とこの世の区別が厳然と分たれているのですが、戦時中のあの時代、境目がはっきりとしていなかったのかもしれない。
黄泉津平坂の向こうの世界へ、明石は行き去る。向こう側からこちらの世界へ、坂を越えて永与はやって来る。
明石は死者であり、永与はその死者から生を託された者であるわけです。

この映画の物語は、戦時中のいかにもリアルな日常を描いた恋愛ストーリーです。
間違いありません。
また、“紙屋悦子”のモデルは、原作者松田正隆さんのご母堂だそうで、あるいは、実際にあった話がもとになっているとも考えられます。
が、その向こうに、死を迎えねばならなかった者と死を逃れ得た者、しかしそのどちらも、あの時代を懸命に生き抜いた人々の寓話を見ることもアリなのではないでしょうか。
すると、黄泉の彼方へと消えた明石の面影に、たとえば「父と暮らせば」で娘を励ますために幽霊となって現われた父・竹造(原田芳雄)の姿が重なってくる。
またたとえば、おれにとっては遺影でしかお会いすることのない戦死した父方の叔父かもしれない。
つまり、彼は、ある方にとっては空襲で命を落とした祖母であり、兄弟であり、ある方にとっては亡くなった戦友であり、あるいはもしかしたら、黒木監督にとっては、15歳のときに爆撃を受け、目の前で亡くなられたという級友たちなのかもしれません。
その彼は、愛する悦ちゃんを永与に託していく。
坂のこちら側の悦ちゃんと永与は、その託された生を背負って、「今日の続き」を生きます。
坂のこちら側にいるおれたちもまた、彼から、あるいは彼らから、生を託されているのではないでしょうか。
そのあたりが、三角関係っぽいような恋愛ストーリーでありながら、通俗性を超えて、どこか普遍的なふくらみを感じさせるところなのではないかと思うのです。

波の音が聞こえたのは、悦ちゃんが明石から永与を初めて紹介されたその夜、手紙を書きながら昼間のことを思い出しているときでした。
また、永与から明石の死を知らされ、その手紙を託されたとき。運命を受け容れ、永与と生きていくことを覚悟し、彼女にしてはアグレッシヴにその気持ちを伝えた瞬間でした。
つまり、明石の意志を受け容れるか否か、永与とこれからの道を共に歩むか否かという、人生の岐路のような場面。
波の音は、そんな悦ちゃんを見守るかのように響いていたような気がします。
あるいは、悦ちゃんは導かれたのかもしれません。
その母なる自然の営みの声、内なるいのちのざわめきに。

思えば、この波の音は、黒木監督の一連の作品の中にずっと通奏低音のように響いていたのではないでしょうか。
「Tomorrow 明日」では、原爆落下の日の前日の人々の日常が描かれ、そこに生の営みが描かれていました。
生まれて、生きて、死ぬということ。
恋を確かめる二人。結婚する二人。お腹に命を宿したことを知る女性。「なんで子どもが生まれるの?」と尋ねる子。遊び戯れる幼い子どもたち。そして、出産……。
様々に描かれる日常風景の中で、こうした自然の営みの風景が点々とつづられていた。
彼らは、たとえば虹を見て、明日はきっといいことがあると思ったりする。
その「明日」は、無惨な閃光に断ち切られてしまったわけですが、しかし、人々の明日を信じる想いは断ち切られることはなかったのではないか。
太古から営々と続き、これからも止むことはないだろうその想いは、祈りとして、おれたちに伝えられたのかもしれません。
「父と暮らせば」では、被爆し生き残った美津江(宮沢りえ)の「自分が幸せになっては、死んだ人たちに申し訳ない」という負い目に対して、幽霊の父親・竹造が言います。──「おまいはわしに生かされとる」
悲しんだり、喜んだりという生を、おまえ自身の生を、わしの分まで生きなくちゃいけないんだ。
そうして美津江は、自分の恋を、自分の生を肯定していきます。
「美しい夏キリシマ」でもまた、ときに泥臭く、ときに愚かしく、けれどひたむきな生の姿が描かれていました。
たとえば、いったんは入水自殺を試みながら、それでも、「明日は明日の風が吹く」とつぶやくヴィヴィアン・リーさながらに旅立っていくイネ(石田えり)のたくましさ。
彼女の中に、いのちの歴史を脈々と支え続けて来た女たちの姿を見る気がします。
これら一連の映画は、もちろん戦争がテーマですが、戦争という不条理な死に対しての生の営み、自然の営みがたえず語られていたように思うのです。
(つづく)
スポンサーサイト

2006_09_20

Comments


 管理者にだけ表示を許可する

08  « 2017_09 »  10

SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

porepore。

Author:porepore。

ブログ内検索




page
top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。