えーと、いわゆる、なんていうか、O3(オースリー)な日々。

原田知世さん(=O3《オースリー》)にまつわる事どもを、 ミーハーなファンが書き散らかしています。

「半分、青い。」(2)──あの世とこの世と、ちょっと知世

なぜなのだろう? ──と、思いました。

何かとんでもない悲劇が巻き起こったわけではありません。
祖母の死。鈴愛(矢崎由紗)自身の聴覚障害。
もちろんこれらは悲劇ではありますが、特殊というわけではありません。
老齢の家族の死や、病気は、程度の差こそあれ、
誰でも身近に経験することだったりします。
なのに、2週間、毎日のように、ドラマを見ては泣かされてしまったのです。

演出にしたって、大仰に悲劇を語るわけではありません。
むしろ悲劇や「いい話」になって、情感が盛り上がってくると、
必ずのようにボケが入って、間をはずします。
わが子をケガさせられたために乗り込んできたと思われた
萩尾和子(わこ)(原田知世)さんが、
実は、鈴愛に感謝するためだったという喫茶店の場面では、和子さんが自慢げに
「十八番(おはこ)」と呼ぶにはあまりに似てないモノマネをぶっこんできて、
最後にはコップがこぼれてガチャガチャします。
母親・晴(松雪泰子)とケンカして家出をしてきた鈴愛に、
和子さんが「お母さんはほんとうに鈴愛ちゃんのことを大切に思ってる」と
説く場面では、律(高村佳偉人)は鈴愛を連れて自分の部屋へ早々に退散し、
「気をつけろよ。お母さんは『ええ話』になると話が長くなる」と言います。

なのに、コミカルを忘れないそんなドラマを見せられているうちに、
知らず知らずに涙がいつのまにかあふれていることに気づくのです。

うーん。なぜなんでしょう?

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ドラマで、“死”を扱うのは難しいと思います。
いえ、刑事ドラマやサスペンスものでは、毎回のように被害者が殺され、
“死”が、日々、大量生産されています。
が、私たちに身近な人の“死”となると、簡単ではないでしょう。
ことに、朝の時計代わりに見られ、生活の一部ともいえるような、
国民的と呼ばれるドラマ枠では、難しいと思われます。

もちろん、ひとりの人生を物語ろうとすれば、“死”は避け得ないテーマで、
これまでの朝ドラでも、さんざん“死”を描き、語ってきました。
が、それは、あくまでも悲劇のモチーフとしてであって、
視聴者の涙を絞り出させるものでした。
たとえ「笑い」が伴わないとしても、“死”を明るく語るのは至難の……。

と思っていたら、スコーンとやっちゃいましたね、「半分、青い。」。

鈴愛の祖母である廉子(風吹ジュン)さんの臨終の場面は描かれず、
ナレーションで処理される、いわゆる「ナレ死」ではありましたが、
その“死”をナレーションで語ったのは、他ならぬ廉子さんご自身でした。

登場人物が命を落としてナレーターとなるのは、
朝ドラ枠だと「べっぴんさん」の菅野美穂さんがそうでしたね。
また、登場人物が序盤で亡くなるというのは、
「わろてんか」のヒロインの兄、新一(千葉雄大)もそうでした。
「つらいときこそ笑うんだ」という物語を貫くテーマをヒロインに教えた、重要な役割を担う人物。
ところが、その最期はあっけない「ナレ死」で、ちょっと話題を呼びました。
序盤の流れの中で、重たい“死”を描くのを避けたのでしょうか。
「カーネーション」は、登場人物がやたらに死んだ印象があるのですが、
やはり死ぬ瞬間の臨終の場面は描かれませんでした。
「明るく元気に」の朝ドラ枠にはそぐわないという忖度が
もしかしたらあるのかもしれないと思ってしまうところです。

しかしそれにしても、それまで元気に働いていたのに、
数年後の場面でいつの間にかナレーションを語っていたと思っていたら、
「空の上から失礼します」と切り出して、
「実はわたし、1年前にピンピンコロリで逝きまして」と、
自分の往生を語る廉子さんの、その声の溌剌さ。明るさ。
いえ、深刻ではないからといって、軽く上っ面をなでる演出ではありませんでした。
“死”に付随する様々なイメージや重圧的な雰囲気が取り除かれたため、
死者である廉子さんの生(き)の声が、ストレートに、
ごく自然に胸に届いてきました。

鈴愛たちが住む、いつもと変わらぬふくろう商店街。
てっきりセットだと思っていたら、
実際の商店街を70年代風に改装したんだそうですね。
そんな商店街を、おそらくはグローンで撮影したであろう、空撮の風景が、
空の上から下界を見渡す廉子さんの視点と重ねられ、
街のふつうな何気ない日常が、ひとつひとつ映されていく。
そこへ、ピアノも達者な少年・律が奏でる、
あの「うさぎ美味しい」ふるさとのメロディがかぶさり、
あの世の人となった廉子さんがしみじみ語りました。

「どうかみなさま、そちらにいるうちに、
あなたの故郷を、あなたの愛するものを慈しんであげてくださいませ」

ああ、死者から見れば、そんなふうに思うのだろうなと、素直に思えました。
私たちも、いずれは廉子さんのいるあちらへと赴く身。
残された時間を思えば、日常の何気ない風景もひとつひとつがいとおしい。
廉子さんは、“死”の向こう側から、それを実感として語ってくれたのです。

「あの世」の視点で、改めて「この世」をながめてみる。
これもひとつのムーリーフォック(MOOREEFFOC)効果だと思います。
(※「ムーリーフォック(MOOREEFFOC)」→参照:当ブログ

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鈴愛が小学生のときに左耳の聴力を失うことは、
第1回目のいちばん始めに語られていました。
脚本の北川悦吏子さんもまた、聴神経の腫瘍のため、
突然左耳が聞こえなくなり、
現在は、完全に左耳が聞こえない状態だといいます。
その冒頭、傘をさしながら左側の雨音が聞こえないというシーンは、
北川悦吏子さん自身の体験に基づくものだそうですね。

そのせいか、ドラマには、音や声にまつわるモチーフがちりばめられています。
マモル少年がマグマ大使を呼ぶのを真似て、鈴愛が律を呼ぶときに使う笛。
TVの歌を録音しようとしたカセットに偶然刻まれた、
鈴愛と母・晴のケンカの会話。その声。
永久機関を夢みる律が製作したマーブル・マシンのモーター音。
鈴愛はこの音を子守唄みたいだと言って眠りに落ちます。
そんな“音”のモチーフのひとつが、糸電話です。

糸電話は、声を伝えるもの。口と耳を結ぶもの。
人と人とを結ぶコミニュケーションの象徴といってもいいでしょう。
その糸電話によって、鈴愛を取り巻く人々が結ばれます。

そもそも鈴愛は糸電話で、あの世の祖母とこの世の祖父を結ぼうと考えました。
それが三途の川ならぬ木曽川の実験で、
鈴愛と律が糸電話を通して互いの名前を呼び合うことになります。
互いに名前を呼び合う──ただそれだけなのですが、ちょっと初々しくて、
きゅんとしてしまう場面です。

ウーちゃんこと父・宇太郎(滝藤賢一)も、
鈴愛がまだハルちゃんこと母・晴(松雪泰子)のお腹の中にいた頃、
糸電話を使って鈴愛と話をしていました。
糸電話の紙コップを大きなお腹に押しつけ、まだ「鈴愛」という名前がなかった胎児に
「もしもし、父ちゃんやよー。赤ちゃーん。元気ですかー」
と呼びかけていた。
そんな思い出話を晴から聞かされた鈴愛はこのとき9歳で、
さっぱり覚えていないと答えていました。

「誕生を記憶する子どもたち」(デーヴィッド・チェンバレン著)という本には、
胎内でどんな音楽を聞いたかを覚えていたり、
まだ目が見えないにも関わらず、子宮の中が薄暗いと感じていたりという
胎内記憶を話す2〜3歳児の証言が集められています。
その時期を過ぎると大半の子どもたちは忘れてしまうそうで、
9歳の鈴愛が覚えていないのは当然です。

しかしどうやら胎児には、意思も感覚も感情も記憶もあるらしいのです。
だとすると、彼らに、もしもしゃべる手だてがあったなら、
鈴愛のように気持ちを伝えてくれることが出来るかもしれません。
胎児がドラマのナレーションをつとめるのも、
そうそう非現実的なことではないような気がしてきます。

北川悦吏子さんは10代の頃から腎臓の持病のため、医師から
子どもを産むのは難しいと言われていたそうですね。
晴さんと同じです。
晴さんは心臓病の持病のために、出産をあきらめていた。
それが結婚して思いがけず妊娠となったとき、夫に相談し、
どちらを選択しても応援するよと励まされ、リスクを覚悟で出産を決断します。
このあたりなど、北川さんの経験が反映されているでしょうか。
北川さんもまた覚悟を決めて出産され、娘さんを授かったといいます。

さらには、へその緒が首に二重に巻きついているなどのアクシデントもあり、
その結果の出産シーンは、
母子ともにつつがなく健やかに生まれることのありがたさ、
そして生命が産まれたよろこびをいっそう深く感じられることになりました。

が、かと言って、出産は正義というような、
双手を挙げる礼賛で終わるわけではありません。

たとえば、帝王切開も必要かもしれないと告げられたとき、
晴は、ビキニを着たときに手術の傷痕が残ることを心配して、
ナレーションの鈴愛から「マジですか、お母ちゃん?」とツッコマれます。
もちろん本心は「わが子ファースト」でしょうが、
こうしたクスグリの笑いの中に、
傷を気にする女心の本音がチラッと混ぜ込まれていて、
ちょっとリアルで、ちょっとホッとするような気がします。

赤ちゃんを取り上げたキミカ先生(余貴美子)。
その後もかかりつけの医師として鈴愛たちを見守ることになるのですが、
先生にとって、やはり患者は他人。
けれどその「人の幸せ、人の宝」である子どもたちの成長に携わる
医師という仕事によろこびと生きがいを感じています。
助産師のせっちゃんに「あんたは子ども生まなあかん」と言う。
けれどそういう先生自身は、多忙な仕事の成り行きでしょう、
出産をしない人生を選択している。
キミカ先生という立場の女性を配することで、
産まないという選択もアリだと尊重しているようにも思われます。

出産というと、主要キャストはお母さんで、そりゃあもう大変な仕事で、
ウーちゃん(宇太郎)のように付き添う父親が今は増えたとはいえ、
男性は蚊帳の外だと思っていました。
けれど、出産というイベントを経ないでこの世に生きている人はいない。
男性女性に限らず、生きとし生けるものすべてが経験してきた、大イベント。
胎児の立場から語る鈴愛の声を通して、
改めて出産ということを考えさせられました。

上に紹介した「誕生を記憶する子どもたち」という本では、
2〜3歳の子どもたちが、誕生当時の記憶を語っています。
そのとき、寒かった。おおぜいの人がいて、父親は抱くのをこわがってちょっと触っただけだった。
そのとき、鼻に管を入れられてジュルジュル吸われた……などなど。
もしも記憶が失われていなければ、
私たちは誰もが彼らのような誕生の瞬間の思い出を持っていたわけです。
もしかしたら鈴愛のように、「私、生まれたい!」と叫んでいたかもしれません。

そんな気持ちでこの世に生まれてきたことも
私たちはすっかり忘れてしまっている。
母親の「ふわふわのぽわんぽわん」なお腹の中で十月十日過ごしていたことも
すっかり忘れてしまっています。

昔、飢饉などのため、やむを得ず新生児を間引かなければならなくなったとき、
人々はその行為を「お返しする」「お戻しする」といいました。
少しでも罪悪感を減らそうという方便の言い方かもしれませんが、
新しい生命は、「あの世」という異界からやって来るものであって、
その命を奪うことは、魂を再び「あの世」へ返すこと、戻すことなんですね。
胎児として母親の胎内でかたちを成した時、
彼はすでに「この世」を生きています。
意思を持ち、感じています。
が、当時の人々にとって胎児は「あの世」の住人でした。
それは現代の私たちの無意識の中にも生きていると思います。

そんな「あの世」の胎児の視点で、改めて「この世」をながめてみる。
自分自身を振り返ってみる。
母親のありがたさに、思いを馳せてみる。
これもまたムーリーフォック(MOOREEFFOC)効果だと思います。

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ドラマの中で糸電話は、「あの世」と「この世」をつなぐアイテムでした。
が、糸電話という目に見えるかたちがなくても、
「あの世」と「この世」はつながっているということを
楡野一家のお墓参りのシーンが教えてくれたように思います。

祖父・仙吉(中村雅俊)さんが鈴愛に、三途の川はこの世にないと語ります。
けれど、おばあちゃんである廉子さんは、
「ここにもおるし(と胸を指し)、空にもおる」
と、お参りの帰り、見晴らしのいい草原でお弁当を食べながら言います。
(お墓参りは、家族そろってのちょっとしたピクニックなんですね。)

そして仙吉さんは、糸電話の紙コップを口に当てて、
空に向かって「廉子さぁーん」と叫びます。
2001年にヒットした「千の風になって」は当時まだありませんでしたが、
私はお墓にいるのではなく、「千の風になってあの大きな空を吹き渡ってい」るという
その風に呼びかけるかのようです。
やがて鈴愛たちも呼びかける。

その声に、今はナレーターである廉子さんが
何かしらレスポンス(応答)かコメントを返すのかと思われたのですが、
ウーちゃんが、母・廉子さんの声真似をして茶々を入れただけで、
廉子さんは沈黙していました。
でも、現実には当たり前ですよね、死者に呼びかけても答えは返ってこない。
けれど、ドラマを観ている視聴者にはわかるわけです。
呼びかける声が、廉子さんにしっかり伝わっていること。
そんな仙吉さんや家族を、廉子さんがしっかり空から見守っていること。

丘から見渡す雲と陽射しと空のロケーションがやたらに素晴らしく、
そんな一家の後ろ姿を映じた情景は、しみじみとしみいるものでした。

雲2 

糸電話の糸は目に見えないけれど、死者である廉子さんと家族を結んでいました。
そして家族同士もまた、目に見えない糸でつながっているようすが
ドラマの中で描かれていたように思います。
鈴愛と弟の草太(上村海成)。
鈴愛とおじいちゃんの仙吉さん、お父ちゃんの宇太郎さん。
そして鈴愛とお母ちゃんの晴さん。
そのつながり方は、声を掛け合うというのではなく、
ひっついたり、抱き合ったり、いちゃいちゃ、こちょこちょするものでした。
ちょっと動物的。ていうか、ちょっと生き物的。

そして鈴愛は、人と人とのつながりが、
糸電話のように声や言葉を交わすだけのものではないこと、
「いしんでんしん」ということを教わります。
渡し舟に乗った鈴愛に、岸からお母ちゃんの晴さんが大声で呼びかける。
鈴愛と律が糸電話で名前を呼び合ったあの川の岸です。
ですが、糸電話を使わなくても、片耳が聞こえなくても、
鈴愛には、お母ちゃんが何を言っているかがわかる。
それを「以心伝心」というのだと、
渡し舟の船頭さん(吉澤健)が教えてくれるのです。

船頭さんが長年連れ添って暮らした妻は、
空襲のため、鈴愛と同じように片耳の聴力を失っていたといいます。
たとえ言葉が交わしにくくても通じ合える──以心伝心ということを
もしかしたら彼は身をもって感じていたかもしれません。

まあ、しかしながら、たとえ心と心が糸電話の糸でつながっていたとしても、
以心伝心でつながっていたとしても、
齟齬が生じたり、相手を想うあまりにケンカをしたり、
時には家出をすることになったりするわけです。
人間というものは。

けれども、律がケガをしたかもしれないとなった時には、
仲間が血相を変えて心配したり、気丈な母親の和子も足が震えるほどに心配したり。
鈴愛が左耳の聴力を失った時には、家族中が心配し、
弟は姉を気遣ってプレゼントを考え、律は彼女を守ろうとしたりする。
生きもの同士、みんな支え合って生きているんですね。

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この2週間、なぜドラマを見て毎日のように泣かされてしまうのか?

それはおれがこのドラマに、いつの間にか
自分を重ね合わせて見ているせいであるかもしれません。
いえ、キャラクターは違うし、鈴愛は女性で、性も違います。
家族構成も違うし、岐阜の商店街という環境も違うし、時代も違う。
共通点など、どこにもないように思われます。

しかし、胎児のときから始まって、
この世に生まれ落ち、わちゃわちゃと育って、
そして、程度の差こそあれ、立っている「足元がぐらぐら」と揺らぎ、
「心もとなくな」るような体験をして、
けれど
「本能が生きようとした。世界を楽しもうとしていた」
という鈴愛の生きものとしての姿は、他人事ではありません。
生まれて、生きて、死ぬ。──それは万人の誰もがたどる道筋です。

そして、いかにも庶民な暮らしぶりは身近で、
何かと失敗してつまづく鈴愛は、身近な存在でもありました。

雲・輪 

また、ドラマのところどころにちりばめられた時代の風俗あるあるも、
当時の自分を振り返る材料となっているのでしょう。

──あしたのジョー。マグマ大使。(3本足の)ムーミンパパ。
8時だよ!全員集合。金八先生。ベストテンごっこ。
ピンクレディー。松田聖子。ダンシングオールナイト。
アブドーラ・ザ・ブッチャー。スーパーカー消しゴム。
ラジオカセット。トイレの花子さん。お尻洗浄器……などなど。

これらは、「ああ、この歌が流行っていた頃、あんなことがあった、
自分はこうだった、あんな人がいたんだよね」的な追慕を促す、
いわば、タイムスリップの呼び水となっていました。

北川悦吏子さんは鈴愛と同じく、岐阜出身、左耳の障害を持っておられます。
しかし1961年生まれの北川さんが、鈴愛を1971年生まれにしたのは、
鈴愛たちがいわゆる「団塊ジュニア」、第二次ベビーブームの担い手であり、
その時代を共有している人々が多いのを鑑みてのことでしょう。
が、あえて10年ずらして設定したのには、
自分とヒロインとにちょっと距離をおき、客観視するという意図も
あるような気がします。

団塊ジュニアにとっては、まさにドンピシャ。
(もっとも「あしたのジョー」や「マグマ大使」などは、
むしろ、ウーちゃん(父親)世代に寄せているかもしれませんね。
鈴愛は食堂に置いてあるマンガを読み込んでいて知ったという設定で、
同級生のブッチャーからは「ババアなの?」とツッコマれていました。)

これらのアイテムをまったく知らない若い世代にとっては、
大阪・登美丘高校ダンス部がバブリーダンスを踊って話題となったように、
知らないけれど、おもしろそうという
好奇心を誘うところもあるでしょうか。

雲・ハート 

今は1万回を越える長寿番組「世界の車窓から」が、
かつて1000回を迎えたとき、
特別番組として知世さんがレポーターとなって旅をしたことがありました。
そのとき、「車窓」について触れていて、
「窓になったり、鏡になったり」と言ってたんです。
昼間は、外の景色を映し出す窓であり、
トンネルに入ったり夜になって暗くなると、自分を映し出す鏡となる。
まったく単純な話なのですが、言い得て妙だと思いました。

ドラマというのも「窓になったり、鏡になったり」ではないでしょうか。
TVの画面は、主人公がたどる物語の風景を映し出す“窓”です。
と同時に、視聴者自身の姿を映し出す“鏡”でもある。
主人公と視聴者は、性も違えば、年齢も性格も育った環境も生き方も
まるで違ったりします。
けれどその“違い”の中に、自分自身の姿があぶり出されてくる。
そして一方で、共通する部分を見つけて、共感したりもする。
登場人物の一喜一憂とともに、視聴者も一喜一憂してしまう。

この「半分、青い。」は、
脚本家・北川悦吏子さんの半生をモデルにしたような
楡野鈴愛を主人公にした物語です。
ですが、彼女とは似ても似つかぬ、むくつけき中年男のおれは、
この2週間、彼女の中に自分の子どもの頃を見て、
改めてあの時代を振り返り、彼女とともに一喜一憂してしまったのでした。

いえ、劇作の巧さも大きいと思います。
たとえば、鈴愛の耳が聞こえない理由がまだ検査中でわからないとき、
突発性だった場合の可能性のために、薬を飲んでいる。
が、鈴愛は、これさえ飲めば治るもんだと信じています。
そのステロイド剤は、たまたま律が喘息のために飲んでいるのと同じだった。
それで鈴愛は「律とおそろいだ」と言ってよろこぶんですね。
視聴者はしかし、耳の難聴はもう治ることはなく、
薬もまるで効果がないことを知らされているわけです。
けれども、鈴愛のうれしそうな、何ともうれしそうな、その無邪気な笑顔。
もうそれだけで、グッときてしまいました。
そんな秀逸なシーンが、多々ありました。

そしてそんな物語を、一種の鏡のようにしておれは自分自身や家族を振り返り、
泣かされてしまったのでしょう。

ドラマを見ることで、自分の過去を改めて見つめ直し、
自分の今の日常を改めて考えてみる。
──これもまたムーリーフォック(MOOREEFFOC)効果なのだと思います。




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  1. 2018/04/21(土) 12:20:00|
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