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アニメ映画「時をかける少女」~そして少女は地面を駆ける

category: movie  

「時をかける少女」(2006年/細田守監督)

このアニメ映画は、直接、知世さんとは関係ないのですが、まったくつながりがないこともないので、こちらへ感想を書いておきます。
(以下、映画中の台詞等の引用は、1回観ただけのウロオボエで書いているため、正確さを欠いている……というより、かなりなデタラメになってるかもしれないことをお含みおき下さい。)

    ☆  ☆  ☆

いやもちろん、大林宣彦版「時をかける少女」とは関係のない映画です。
大林版を観たことがない人や若い世代にとって、これは単純におもしろい映画だと思います。
「単純におもしろい」
──これは、スゴいことです。
理屈とか背景とか抜きにして、ただ、ただ、楽しめる映画って、ホント少ないんですよね。
しかしながら、大林版にかつて心動かされた者が、先入観どっぷりで観ても、これはやっぱりおもしろい映画だと思うのです。
というのも、これは、大林版へのオマージュとしてもみることのできる作品であるからです。
そして、ほんとうのオマージュとは、リスペクトとともに批評性をも備えていることに、改めて気づかせてくれます。
「過ぎていくもんじゃない……。時間は、やってくるものなんだ」
と、大林版では語られました。
「しかし」
と、この細田守版の作品は続けるかのようです。
「やってくる時間を、ただ待っているだけじゃダメなんだ。
やってくる時間をつかもうとその手を伸ばさなければ、やっぱり過ぎ去っちゃうんじゃないの?」

俗説によると、チャンスという名の女神は、前髪は長いけれど、後頭部はハゲているんだそうですね。
彼女が駆けてやって来るとき、しっかりとその髪をつかまえないと、その一瞬を逃して後からチャンスを追いかけようとしても、背中からはもう届かないのだといいます。
時間という奴はそういうものなのかもしれません。
そして、細田版のヒロイン紺野真琴は、時間をその手につかむために、走ります。
大林版のヒロイン芳山和子もかつて、真実を知る瞬間をつかむために(土曜の午後の実験室!)、時をかけました。
しかし、細田版の真琴は、肉体派。
「いっけェーーーっ!」とジャンプしてはコケて転がり、あちこちにぶつかりまくってスリ傷を作りまくって、時をかけます。
“時の狭間”の風景はデジタルなイメージですが、真琴はアナログです。
人間っぽい。
そして、クライマックス。彼女は、運命を自分の手で切り拓くために駆けて駆けて駆けまくります。
が、それは、地面の上。
ただ町を走り抜けて河の土手へ向かうだけなのですが、映像ではその走る姿と息づかいと鼓動と汗をしっかりと描きます。
映画「ラン・ローラ・ラン」のように。
時をかけるというのは、時間をはしょることではなく、文字通り、駆けることなんですね。
その懸命に駆ける姿が、見ていて気持ちいい。
大林版のヒロインが、知世さんいわくの「春風のような女の子」だとすれば、彼女は、夏を駆け抜ける青嵐のような女の子。
そして、彼女にはやっぱり、映画中何度も描かれるあの紺碧の夏空が似合うのです。

さてしかし、前半に描かれるのは真琴の日常と、そしてアクティヴに見える彼女の、実はモラトリアムです。
いや、モラトリアムという言い方は定義的には正確ではないかもしれませんね、つまり、決定することを前延ばしに延ばしている状態。
他人に対しては積極的で行動的なくせに、自分自身については臆病。
特に恋愛については、意識することを怖れている。
それは、現在は友情の関係であるにしろ、千昭と功介との居心地のいい三角関係の均衡を破ることにもなるからです。
もしも、恋愛を意識すれば、誰かを傷つけてしまう。あるいは、何より自分が傷つくかもしれない。
そのために、実際には自分の胸の中に芽生えている感情をおし殺す。
でも、恋愛以外のことでも、何かを決定する瞬間ってそういうものですよね。
「A」の道を選べば、失敗し傷つくかもしれない。それは、ホントの自分の道ではなく、後悔することになるかもしれない。
「B」の道を選べば、失敗し傷つくかもしれない。それは、ホントの自分の道ではなく、後悔することになるかもしれない。
どちらかを選べば、そうした不安やら責任やらが、選択した自分自身にどどおっと押し寄せてくるわけです。
そこで、「A」か「B」か、決めることを迷う。悩む。
それが嫌だからと、決定を先送りにして、中途半端な安逸な場所にとどまろうとすることになる。

そこに、タイムリープという、ドラえもん的なワザが真琴の前に現われます。
そのワザは、大林版では、ラベンダーの香りという無意識的な部分への刺激を引き金とする、コントロールの出来ないものでした。
だから、芳山和子のタイムリープは、清水の舞台から飛び降りるような(事実、崖から飛び降ります)、いわばバンジージャンプのような、捨て身の覚悟を必要としたわけです。
(そういえばバンジージャンプは、もともと南島では、少年がおとなになるための通過儀礼でしたね。)
が、真琴はやすやすとやってのける。
これは便利です。
「A」の道を選んでだめだったら、時間を戻って「B」を選べばいい。
失敗すれば、また戻って選び直せばいいわけです。
映画中、道端のシーンで、何気なくY字路の風景が描かれていたのですが、ちょっと象徴的のように思いました。
まあ、あまり意味のない使われ方だったので、たまたまだったのかもしれませんが。
あるいは、細田守監督の脳裏のどこかに、Y字路をモチーフに一連の絵を描いている横尾忠則さんの影響とかがあったりしたのでしょうか?
このY字路は、やはり細田監督が関わったTVアニメ「おジャ魔女どれみ・ドッカ~ン!」シリーズ中の「どれみと魔女をやめた魔女」でも使われていたものでした。
主人公どれみの微妙な気持ちの揺れが、このY字路によって効果的に表現されていましたっけ。

しかし考えてみれば、おれたちはいつだって、こうしたY字路の前に立っているのかもしれません。
今、こうしてこの文章を書いているおれも、そろそろ惰眠を貪るとするか、いや、コーヒーブレイクにしてもう少しアレコレ、ウダウダしようかなどという、まあ、そんな選択の岐路の前にいるわけです。
こんな低次元のレベルの選択から、恋愛や進路や仕事やアイデンティティに関わる決断まで、Y字路の瞬間瞬間がずっと連なっている。
ちょうど、かつて知世さんがインタビューで語っていたアミダくじのように。
(アミダくじそのものではなく、右か左かを選んで進むアミダくじのような図像のイメージだそうです。)
タイムリープを使えば、いつでもこうしたY字路の前に立てる。アミダくじの起点、分岐点に戻れるわけです。
そうして真琴は、ジャンプして転げ回りながらも、失敗しない方の道を選び直します。
いやあー、完璧じゃないッスか。
人生から「悔い」の文字がなくなる。
いよッ、バラ色の人生!
……ですが。
ですが、物語はここにひとつの真実を用意しています。
「Time waits for no one」というひとつの真実。


ところで、ル・グウィンの「ゲド戦記」(アニメ映画ではなく、原作の本の方。おれはアニメは観ていません。)に、魔法使いの学院の長(おさ)のひとりが、若き主人公ハイタカ(=ゲド)に教えさとす場面があります。
このファンタジーの世界では、魔法で風を呼び、雨を呼ぶことが出来ます。
しかし、長は、その魔法を軽々しく使ってはならぬと戒めます。
なぜなら、たとえばロークの島に雨を降らせることは、自然宇宙の均衡を崩し、遠きオスキルの地に旱魃をもたらすことになるかもしれない。
「東海域におだやかな天気をもたらせば、それと気づかず、西海域に嵐と破壊を呼ぶことにもなりかねないのだ」「影との戦い」清水真砂子訳
というのです。
これは、自然に対する人間の驕りを戒める言葉でもあるかもしれませんが、物事のありようを言い表しているようにも聞こえます。
たとえ、よかれと思うことでも、その一方で負の影響をどこかに及ぼすことがある。
禍福はあざなえる縄のごとし。
と言いますが、すべてのことは、正(いいこと)と負(悪いこと)の背中合わせでできているのかもしれません。

真琴の過去のやり直しのために、クラスメートの高瀬はイジメられることになります。
不可抗力とはいえ。
彼は、劇中では、コミカルな役回りをさせられ、ついには消火器を持って暴れ回るという役しか与えられていませんが、もう少しスポットが当てられていいよなあと思いました。
真琴の叔母である、今は30代の芳山和子は、「あなたが幸せになることで、誰かが不幸になってない?」と、真琴に尋ねますが、彼こそ、その「誰か」なんですね。
真琴はそれに気づかない。
功介や、功介を想う下級生や、千昭たち、みんなを幸せにしようと駈けずりまわりながら。
そしてまた、自分自身も幸せに近づこうとしながら、幸せではない結果を招いていくことに、彼女は気づかない。
そのおかげで、何度も過去を修正しなければいけなくなります。
過去から「悔い」を消そうとしたその端から、新たな「悔い」が生まれてくる。
というのも、彼女がほんとうの意味での選択をきちんとしていないからなのではないでしょうか。

モラトリアムというのは、これは、未来へ逃げ込むことなのかもしれません。
かつてキルケゴールという哲学者が、人間ってみんな、ホントの自分自身であろうとしないもんだよね、ホントに生きてるって言えないんじゃないの?…てなことを言っておりました(「死に至る病い」)。
そのひとつのパターンが未来へ逃げ込むこと。
つまり、未来になればきっとだいじょうぶ、未来になれば真価が認められる、ホントの自分になれる……などと夢想することで、今の自分の姿を直視しないようにする。
ホントの自分の現実から逃げようとする。
選択をすれば未来は現実化します。その結果、夢想していた未来が裏切られることになるかもしれない。
それを怖れて、選択を先送りにするわけです。
あるいは、将来を悲観的に考えて、どうせダメだろうと一歩を踏み出そうとしないのも、未来にとらわれているといえるでしょうか。
キルケゴールはまた、ホントの自分自身であろうとしないパターンのひとつとして、逆に、過去へ逃げ込むということを挙げています。
今の自分はこんなだけど、昔はこうだった。
キレイな想い出や、昔にとった杵柄(きねづか)の中にこそホントの自分があるのだと思い込んで、今の現実から逃げようとする。
また、過去に受けた傷をひきずり続けたり、恨みや怒りにとらわれ続けたりというのも、現在の自分を見ようとしないという意味では、過去にとらわれているといえるでしょうか。

今は30代の芳山和子の職業が美術館員で、遠い過去に描かれた絵画の修復を仕事にしているという設定がおもしろいと思いました。
彼女は過去を生きているのです。とらわれている。
いえ、もちろん、10代のときに出逢った深町クン(大林版)との記憶はすっかり消去され、意識からは抜け落ちているはずです。
が、たぶん無意識的に、彼女は消されたはずの過去の想い出を修復しようとしているのではないでしょうか。
そしてまた彼女は、たぶん無意識的に、またいつかどこかで、深町クンと出逢うことを待っている。
つまり、彼女は未来にとらわれている。
過去にとらわれ、未来にとらわれているというわけです。
大林版で、たしか研究室の指導教授の女の先生が、
「命短し、恋せよ乙女」
みたいなことを言っておりました(「ぼやぼやしてたら、あっという間におばあちゃんよ」)。
彼女は未来を「待っている」うちに“Time waits for no one”、「あっという間に」30代となってしまったのではないか。
なんて想像もしてしまいます。
しかしです。
彼女が物語の中で修復しているひとつの絵があるのですが、その完成されたかたちは、彼女が作業を終えたその時期にしか見ることができないのだといいます。
彼女が手をつけるまでは未完であり、彼女が作業を終えてしばらく後には、どうやら損なわれるかしてしまうらしい。
未来人の千昭がタイムリープでこの時代へやってきたのは、その完成された絵を見るためだったんですね。
つまり、1回きり。
1回きりの絵との出逢いをするために、千昭はやって来たというのです。

おれはずいぶん昔、展覧会で見たモディリアニの絵が気に入ってデカいポスターを買い込み、狭くてボロいアパートの部屋に貼っておりました。
その背景は暗褐色で、彼女の服も黒っぽい。
彼女の目はうつろ(モディリアニの人物はたいてい目がうつろなのですが)で哀しげで、狭くてボロいアパートに妙になじんでおりました。
歯をみがくときも、飯を食うときも、布団へもぐり込む前も、いつもその絵を目にしていました。
が、あるとき、たぶんあいかわらずの失恋かなにかで落ち込んでいたときだったか、ふとながめたその絵が、なにか違って見えたのです。
暗褐色の背景は、落ち着きとぬくもりのある色に見え、憂いの漂う視線には、どこか穏やかな慈しみが見えるように思えた。かすかに微笑んでいるようにさえ感じた。
しおしおに落ち込んでいたおれは、何かじわありと慰められるような気がしたのでした。
まあ、その女性像は胸に十字架をつけた修道女だったから、そのせいで救われた気になっちゃったのかもしれません。
日頃、その絵は、何百回となく見ていたはずです。
しかし、そんなふうにしみじみとながめたのは初めてでした。
1回きりだったかもしれません。

絵画というものは、何千回何万回もくり返し見ることのできるものです。
けれど、そのときの気持ち、そのときのシチュエーション、そのときの感覚で見るというのは1回きりなのではないでしょうか。
作品との出逢いというのは、そういうものなのかもしれません。
同じ小説でも同じDVDでも、読むたびに見るたびに感想が変わるというのは、つまりその体験の瞬間が1回きりであるからなのでしょう。
2度目3度目に読む(見る)ときは、また違う心理状態、成長の度合いで、新たな体験をしているというわけです。
もしかしたら、人との出逢いというのも、そういうものなのかもしれませんね。
家族や腐れ縁の友人とは、それこそ何万回も顔をつき合わせ、飽きるくらい言葉を交わしています。
でも、たいていは過去にとらわれてつき合っている。
そういう奴なんだ、あいつは。
なんて、過去のパターンだけで判断したり、
どうせ、そう言うと思ったよ。
なんて、過去から類推するだけで、今の彼(彼女)を見ようとしない。

「ライフ・レッスン」(E・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー共著、角川文庫)という本に、現在の瞬間を生きているといえる男性のエピソードが紹介されています。
彼は、なじみの部屋に入るときも、初めてのように新鮮な気持ちで部屋をながめた。
あいさつをするときも全神経を相手に注ぎ、その話を聞くときは、全身を耳にして聴いた、といいます。
相手の過去にとらわれず、相手の現在(いま)に目を向けると、その言葉ひとつひとつが新鮮で、その一瞬一瞬が貴重に思えるのかもしれません。
マラソンのランナーでもあった彼は、リンパ腫に冒され、両脚の切断を余儀なくされる。
が、今を生きるというその態度は変わらず、自分の今の状態、今の心境を正直に淡々と語り、見舞客の今に耳を傾けたそうです。
すると見舞客自身も、彼の質問には心の底から答えようとし、自分自身を正直に見つめるような気持ちになっていった。
彼は今を生きることで、周囲をも変えていったんですね。

この本は、ターミナル・ケア(死を前にした終末期医療)やホスピスに携わった二人の著者が、多くの患者に学んだ教訓をその症例とともに綴っているものです。
自分の視界に死の姿がちらつき始めるとき、今という瞬間が強く意識されるのかもしれません。
この風景を見ること、音楽を味わうこと、家族や友人と語らうこと──それが平凡な体験であったとしても、この体験の瞬間はもう二度とないのだと思うと、すべてがいとおしくなる。
周囲の人間もそうだと思います。
この人といっしょに過ごす時間がもう二度とないのだと思うと、その日常の一瞬一瞬がすごく大切に思えてくる。
おれの祖母が亡くなる前もそんな感じであったことを覚えています。
「一期一会」
という言葉は、もともとは茶道で茶会の心得について言われたものだとか。
一生に一度限りという意味で、出会いのかけがえのなさを言うそうです。
それで、人と人が初めて出会うときのその大切さが強調されることも多いようですが、それだけでなく、日頃、顔をつき合わせている同士であっても、その付き合いというのは一期一会と言えるのではないでしょうか。
同じメンバーで繰り返す茶会の席でも、その日その時の会は一生に一度限り。
つまり、すべての瞬間が一期一会だったりするのかもしれません。
「Time waits for no one」
その瞬間は、二度と待ってはくれないのだから。

さて、芳山和子ほど、「一期一会」──生涯の一度きりの出会い──ということを理解している人間はいないでしょう。
そして彼女は、過去に逃げ込むのではなく、やはり、「今」を生きているのでしょう。
過去の絵画を修復するという彼女の仕事は、それを描いた画家の想いを「今」に伝えるということなんですね。
歴史学が「過去」を調べる学問でありながら、「現在」の道標(みちしるべ)となるように。
(ふる)きを(たず)ねることが、しき今をることにつながるように。
20数年前の作品を、新たなアニメ映画として今に再生することも、そうなのかもしれません。
過去の画家の想いは、作品を通して、今を生きることになる。
画家とそれを見る者は、作品を通して、時空を超えた一回きりの出会いをすることになるわけです。
彼女はその媒介者。
だからこそ千昭は、彼女の「今」を訪ねて、未来からやってきたんですね。

そしてやはり、芳山和子は「待っている」。
しかしそれは未来へ逃げ込むことではなく、そうした「今」の瞬間を積み重ねることで、やってくる未来もあるということなのでしょう。
──「時間は、やってくるものなんだ」。
千昭が未来からやってきたように、もしかしたら芳山和子の一期一会のあの人もまた、未来からやってくるかもしれない。
いえ、もしかしたら、彼女を未来で待っているのはまた別の出会いかもしれない。
けれど、再会であれ、別の出会いであれ、それは「今」を生きる彼女にとって、また新たな一期一会であるのではないでしょうか。

しかしそれはまた、別の物語。
この物語で、彼女は姪の真琴に言います。
わたしは待っているだけだった。けれど、あなたにはあなたのやり方があるんじゃないかしら。
そして真琴は、自分に後1回だけ残されているタイムリープのチャンスを使って、運命の選択をすることになります。
それが愛する人との別離であることを知りながら。
それまで何度もタイムリープをくり返す中で、真琴は、自分の中の千昭への想いに気づき、選択の意味に気づいていったのだと思います。
何度選択し直したとしても、それは1回きりの新たな選択なんですね。
だからその選択の度ごとに、新たな局面が生まれ、新たなリスクが生じてくる。
しかし、選択というのは、そうしたプラスの面、マイナスの面──責任や罪咎をも含めたまるごとを背負って、自分自身を選択するということなのでしょう。
遠いオスキルの地に、あるいはとなり町に、あるいは自分の住む土地に旱魃をもたらそうとも、ロークの島へ雨を降らせなければならない選択もあります。
たとえその選択が、最悪の場合、死をもたらすこととなっても。
だからこそ、「現在(いま)」というこの瞬間の選択が大切なのでしょう。
かけがえのない「現在(いま)」という。

しっかし、「現在(いま)」を生きるというのは何とタイヘンなことか。
我が身、我が生活を省みるとわかります。
秋には過去の盛夏を懐かしみ、冬には未来の春に焦がれる。
それが人情ってもんかもしれませんが、そればかりで、その時その時の現在(いま)をすっかり忘れていたりする。
夏には夏をかみしめ、秋には秋を楽しむ。
今がたとえ凍てつく冬であったとしても、冬の現在(いま)を味わうことから、すべては始まるのかもしれません。
知世さんは、インタビューの端々で、今がいちばん素敵な年齢に思える…というようなことを、ここ十数年来言い続けてきたような気がします(笑)。
つまり、20代には20代の、30代には30代の現在(いま)を味わい楽しみ生きて来たということでしょう。
ファンの中には、過去の知世さん像にしがみついている部分もあるかもしれませんが、知世さん自身はそんなしがらみからポーンと跳びはねて、現在(いま)そこにあるNext Doorのドアノブへと手を伸ばし続けているようにも思えます。
知世さんの実際は、“芳山和子”であるよりは、“紺野真琴”に近いのではないでしょうか。
おそらく、40代50代になっても、今がいちばん素敵な年齢に思える…というようなことを言い続けるのではないかと思うのですが。

……などと横道に脱線しつつ、ゴチャゴチャ書きつらねてしまいましたが、もう一度繰り返しましょう。
これは、単純におもしろい映画で、純粋に楽しめる映画です。
おれは映画館で、ただ、ただ単純に、ヒロインとともに笑い、途方に暮れ、最後にはほろ苦い傷みとともに爽快感を味わいました。
が、それから数ヶ月を経るうち、胸底にいろんな考えがふくらみ、整理のつかないまま、こんなふうに綴ってしまったのでした。
というのも、これはとびきりのエンタテイメントでありながら、その奥底にいろんな機微について考えさせる豊かさがあるからなのではないか…………って、アレ?
ということは、これってもしかしたら、いわゆる“名作”っていう奴じゃないですか。





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2006_11_18

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