えーと、いわゆる、なんていうか、O3(オースリー)な日々。

原田知世さん(=O3《オースリー》)にまつわる事どもを、 ミーハーなファンが書き散らかしています。

原田左斗志句集より(7)

原田左斗志さんは、父親として、一男三女を育てられました。
後年にはお孫さんも登場しますが、子どものことを詠んだ句も少なくありません。
それらの句からは、
よき家庭人、よき父親であった左斗志さんの横顔がうかがえます。




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原田左斗志「天に滴る葡萄群」より

【襁褓(むつき)】:おむつ。おしめ。
【初湯(はつゆ)】:①生まれて初めて浸かるお湯。産湯のこと。
②新年に初めて入るお湯。正月二日に入る湯。初風呂。


「初湯(はつゆ)」には、産湯と、正月に入る初風呂の二つの意味があります。
おしめを干しているので、「産湯」の意味の可能性もあると思いましたが、
窓は明るく、つまり昼間に入浴しているわけで、
正月の季語である「初湯」の方がしっくり来るように思われます。

風呂場の窓から、干しているおしめの白い布がまぶしく見えるのでしょうか、
あるいは、曇りガラスにその影がゆらゆらと映っているのでしょうか。
いずれにしろ、お風呂場の中も明るい日差しに満ちています。
赤ちゃんが健やかに育っているだろう家庭の生活感を織り交ぜながら、
ゆったりと風呂に浸かる新年の晴れ晴れしさ、
一家の幸福感まで伝わってくるようです。

昭和44年の作なので、これが正月の句だとしたら、
いちばん末っ子の知世さんは、当時、1歳と1ヶ月。
もしかしたら、このおしめは知世さんのものかもしれません。




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原田左斗志「天に滴る葡萄群」より

【芽木(めき)】:芽吹いた木。春の季語。
【嗤(わら)ふ】:「わらう」は、「笑う」とも「咲う」とも書き、花のつぼみが開くこと、
果実が熟して割れることなど、植物が生育するようすを意味する。
だから「山笑う」といえば、春になり、山の草木がいっせいに萌え始め、山が明るくなることをいう。


これは、必ずしも子どものことを詠んだ句とは限らないのですが、
おれは、子どものふとした日常の情景を描いたスケッチのように思いました。

叱られたのか、癇癪を起こしたのか、それとも虫を見つけて驚いたのか、
うわあーんと泣きベソをかいてしまった子。
その子が駆け寄ったのか、見上げたのか、近くに木の枝。
その木は、夏であれば葉をワサワサ茂らせ、こんもりと分厚く太って見えるのでしょうが、
今はまだ裸の枝々が隙間だらけのように見えていて、
そこにポツポツポツと小さな薄緑の鮮やかな新芽が、わっと吹き出している。
その子は、春を告げる小さな生命に思わず見入って、泣くのを忘れてしまったかもしれません。

「嗤う」は、木の芽が萌え出るようすをいうのでしょう。
が、その木の芽たちが、泣く子をからかって笑っているかのように、
あるいは、「うん、うん」と微笑みながら慰めているかのようでもあります。

人間の幼子(おさなご)と、木の芽の幼子(おさなご)たちの思わぬ邂逅と、
まるでちょっと対話しているかのような微笑ましい情景が浮かび上がってくるようです。




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原田左斗志「天に滴る葡萄群」より


子育てには、うまくいかないことも多々あります。
育て方が間違ったのではないか、もっとこうしてあげればよかったかと、
正解のないことに思い悩むのが、親なのでしょう。

子どもがよっぽど悪いことをしたのか、
それで思わず手が出てしまったのかはわかりませんが、
作者は、「子を打ちて」しまった。
打たれた側の頬も痛いでしょうが、打った側の心も痛い。
それで後悔したにせよ、
あるいは納得ずくで後悔しなかったにせよ、暗澹たる気持ちで外へ出たのでしょう。

アジサイの花は鮮やかで、梅雨の暗い空によく映えます。
逆に、その鮮やかさが、周りの暗がりを濃く見せる。

その奥の闇を見つめ、自分の心と向き合う作者がいます。




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原田左斗志「天に滴る葡萄群」より


この句は昭和60年の作なので、ここに描かれている母子像は、
もしかしたらご長女とお孫さんかもしれません。

桜咲く春の、これは午後のひとときでしょうか。
華やかな桜の花は遠景にあり、喧噪もずっと遠くにある。
静かです。
何の衒(てら)いもなく、何の焦燥もなく、
ただ、ただ、あるがままに健やかな寝息を立てる子と母。
その情景は、うっとりとするくらいに平和そのものです。

「上善は水のごとし」
と、老子はいいました。
水は「上善」──最高の善のようだというのです。

「天下に水より柔弱なるはなし」ともいっています。
水は、頼りなく、弱い。
けれど、万物の中に流れ、利して、争おうとはせず、
自然のままに低いところに留まって、深く静か。
その「静」とは、万物の根元に帰った状態であるともいいます。

「水のごと」は、必ずしも老子の言葉を踏まえた表現ではないでしょう。
が、育っていく子どもと、育てる母親──。
現実の「子育て」は──目を覚ましたときには、時にはたとえば、あせったり、争ったり、
意地を張ったりと、諸々のことがあるかもしれません。
けれど、子と母の風景は普遍で、不変です。
ただ寄り添って眠る──寄り添い合いながらいっしょに生きていくというその風景は、
人間が動物の頃から繰り返してきた、根元的な原風景でもあります。
老子の言った「上善」に通じるものがあると思います。

そしてここには、そんな子と母をやさしく見守り、
いとおしんでいる作者の眼があります。

作者はきっと、そんなふうに家族を見守り、
子どもたちを見守ってこられたのだと思います。





















  1. 2018/02/23(金) 09:53:00|
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