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「(梨果を演じた)原田知世さん、まっすぐで芯のつよそうでもろそうで、
やっぱりつよそうなところがいいですね。…」


これは、「落下する夕方」原作者の江國香織さんが、映画監督合津直枝さんに宛てた手紙の一節。
映画化された「落下する夕方」を見ての感想だそうです。
角川文庫「落下する夕方」の解説で合津さんが紹介されていました。
 
おれは恋愛小説が苦手で、これまで江國香織さんのものも読んだことがありませんでした
(絵本のエッセイや訳書はときどき見てて、
江國さんの絵本についてのトークショウとかには足を運んだりしてたんですが)。

しかし、しかし、うーむ、知世さんのミーハーファンのはしくれとしては、
これはやはり読まねばなるまい。と覚悟を決め、鉢巻きを締め、
この文庫本に手を伸ばしたのでした。

で、フタを開けてみたところが。
……おもしろかったです。

中でも魅かれたのは、根津華子ちゃん。
主人公梨果の恋人を奪うかたちで別れさせておきながら、
ノラの子猫が住み付くように梨果の家へ転がり込み、ごく自然に暮らしはじめる。
映画では、菅野美穂さんが演じていたあの女の子(ホントは原作では27歳)です。

おもしろいッスねえ、あのキャラ。
たとえば食べ方。飲み方。
彼女は、牛乳やカルピスがお気に入り。
時にはセブンアップやミリンダも飲んだりしているようです。
なみなみとグラスにつぐのですが、半分ほどしか飲まず、
あとは残してそこらに置きっぱなし。「まるでさっちゃんのバナナみたいに」

童謡「さっちゃん」で、バナナが好きなさっちゃんは、
けれど小さいから半分しか食べられなかったんでしたっけ。

その理由について、梨果は、彼女の寝顔をながめながら
「こんな小さな喉(のど)ではそれも無理からぬことかもしれないと
馬鹿げた納得をしてしま」
ったりします。
「いっぱしに」秋はお腹が空くからと言って
真夜中に月見そばを作っても、半分残してもてあましたり。
湯豆腐も天ぷらそばも、残してしまう。
その“食の細さ”っぷりは、可愛い。と同時に、華子の繊細さ、もろさも感じさせます。

もちろん、小食な人が、即、脆弱というわけではないのですが。
けれど、生命力の希薄さ。華奢さ。
小さいころ、鹿になりたかったという彼女は、どこか野蛮さを匂わせて、
「まっすぐで芯のつよそうで」あるけれど、でも「もろそう」なのです。

反対に、健吾(梨果の元彼)や勝矢さん(健吾の友人)といった男たちは、
焼き肉に行ってはよく食い、よく飲むのだそうで、梨果はそんな彼らにみとれたりします。

そして華子と対照的に描かれるのが、カツヤノモトカナイ(=勝矢さんの元家内)さん。
勝矢さんの旦那さんもまた華子に惹かれ、そのために勝矢夫婦は離婚したのでした。

彼女の食事のシーンは描かれてませんが、たぶん彼女もまた健啖家ではないでしょうか。
カツヤノモトカナイさんの足首は細いけれど、「現実感のあるくるぶしの突起」と描写されます。
「脚なんて小学生みたいだった」と言われてる、
華奢で貧弱な華子の足と対比されている。

そう。
小食で、「生き物の鬱陶(うっとう)しさのない」華子は、現実感のあるくるぶしがない。
どこか透明に生きてる。
非現実を生きているようです。

健吾や勝矢さんやおれたち、そして梨果自身も華子に魅かれるのは、その純粋さにあるかもしれません。
純粋さは、時に悪魔的。
気持ちに純粋で、執着から離れ自由であろうとすると、
一つの恋愛を継続させて、全うさせるなんてことは、そりゃ難しい。
男を渡り歩き、風来坊となるのも、そのときどきの気持ちに純粋であるからなんでしょうね。

しかし、それは周囲を振り回し、傷つける。
そして、華子は、その自分の気持ちがいちばん信じられないのです。
彼女の透明な目から見れば、自分をも含めたこの世界のすべてが信じられない(たった一人、弟を除いて)。

江國香織さんは、あとがきで“格好悪さ”について書いてます。
それは「たとえば未練や執着や惰性、そういうものにみちた愛情」であり、
この「落下する夕方」は、格好悪い心の物語なのだと。

でも、“未練や執着や惰性、そういうもの”の全くない愛情というのは、ありえないんじゃないかと、
おれは思います。
それは、情念と言えば言葉はいいけど、時にかたちを変えたエゴイズムであったり、欲望であったり。
時に下品であったり、時に本能的、動物的。
そうした感情や身体的な部分を生っぽくさらすのは、美的にいえば、そうとう格好悪い。

でも、現実の半分は“そういうもの”を抱えているもので、
そこから全く自由にはなれて純粋でいることはできない。
純粋であればあるほど、その現実は汚れにみちた絶望的なものに映るかもしれません。

華子は、「まわりのものから、ただ逃げてる」のだと言います。
逃げ続けている。
世界から、現実から、の逃亡者。
彼女の自殺の理由ははっきりと述べられていませんが、
そんな彼女が「タイムオーバー」を望むことは、当然の帰結であったようにも思えてくるのです。

雲1

以前、知世さんをまじえた対談番組で、作家の村上龍さんが話していたことがありました。
それはある女性のはなしで、
彼女は失恋をして、その愚痴をステーキ屋さんでこぼしていたんだそうです。
涙をこぼしながら失恋のはなしを語る。
でも、哀しみに傷ついたその乙女心と、旺盛な食欲は別ものだったんですね、
皿がテーブルに並べられると、ぼろぼろ、ひっくと涙を流しながら、
彼女はステーキをぱくつくのをやめなかったそうです。
そのたくましさ。生命力。
彼女は、おそらく華子と正反対。

そして、カツヤノモトカナイさんも、華子と正反対のところにいます。
梨果は、カツヤノモトカナイさんの美しい髪や首や腰、その肉体に
「頑(かたく)ななまでの現実感」を感じとっています。
嫉妬さえ覚える。
そして、いつか「この人の現実感が勝矢さんを救う日がくるかもしれない。」とも思うのです。
 
現実感。ありふれた日常。
たとえば、朝、恋人の横で目をさますこと。
恋人の皮ジャンのすりきれた袖口。
二人で入るそば屋のおつゆのにおい。
——そうした日常の現実的な、手触りのするような幸福感を、
華子は「わからないのだ」と、梨果は断定しちゃいます。

勝矢さんや健吾、梨果たちを結局救うのは、この現実感、身体性なのかもしれません。
失恋に涙あふれさせつつ、ステーキをぱくつく身体感覚。
恋人の体温や「生き物の鬱陶しさ」さえ感じる、現実的な触感。

雲・ハート

これはちょっと斜めなヘンな見方ですが、
おれは、華子という存在は、梨果の(あるいは作者の)分身
——もうひとりの梨果であるかもしれないよなあと思いました。
自分が揺れ動きながら、心のどこかで望んでいるもの。

その存在に恋人は惹かれ、恋人は去っていく。
梨果自身も、その存在に魅かれるけれど、彼女を「透明な冷静さ」で見つめていくうち、
彼女が現実から逃げているもろさに気づいていく——。
 ……と、まあ、こいつはちと斜めすぎる見方ですね。

しかし、そりゃあ、格好よい失恋なんて、めったにできるもんじゃありません。
執着してしがみつき、しがみついては疎まれ、未練たらたらに泣いて鼻水たらしたり、
酒飲んでクダ巻いて騒いだり(あ。おれの場合だけ?)。

けれど、梨果は、そうはしない。格好よく黙る。
黙って、恋人に理解さえ示そうとする。

でも、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などに対する精神医学が教えてくれるところによると、
そうした感情を無理に抑えつけることが、回復を悪化させたりするそうですね。
悲しいことは悲しいと感情をぶつけ、外に出し、
自分の気持ちと向き合うところから、回復への道が開かれるのだとか。

梨果は、結局、自分の格好悪い感情と向き合い、華子が逝った向こう側ではなく、
「こちら側」に踏み留まり、現実感や、生きていく生身の身体感と向き合おうとしたのだと思います。

だから、華子が死んだ後。小説のラスト。
つつましやかなはずの梨果が、健吾に「寝よう」と迫り、“レスリング”のようなセックスを挑むのは、
自分の身体性や感情を取り戻すための儀式のようなものではなかったかと。
そうしてはじめて、
「引っ越そうと思うの」
と、彼との、そして、これまでの自分の生との訣別を宣言できたのではないでしょうか。

huusen-g.gif

かつて、角川春樹さんが、
“原田知世には肉体が欠如している”というようなことを言った……ような気がします。

当時は(も)、その意味をよくわかってなくて、
どういう文脈で、どういう意図で言われたのか覚えてません。
ですが、その言葉だけ聞いたとき、妙に納得したような記憶があります。

ある意味、少女というのは肉体が欠如してるものであり、
その純粋さ、その潔癖さゆえに、身体性を嫌悪するものなのかもしれません。

けれど、知世さんは、少女期を過ぎてなお、“植物的”“透明感”と形容されるように、
「生き物の鬱陶しさ」、生々しさを感じさせないところがあります。

原作の中の男の子のお父さんの説だと、男と女は「ここ一番ってときに」
「フェロモンをばばばばっとだして」
恋人同士になるのだとか。
知世さんには、どうもその“ばばばばっ”がない。
きわどいラブシーンでも、フェロモンを感じられない。
(あ。断定しちゃってスイマセン。少なくともあのスクリーンの中では、という話です)。

むしろ、“フェロモン、ばばばばっ”を否定しちゃってるような……。
そして、そのあたりが独特な魅力であり、
同性の女性からも多く支持される個性であるように思うのです。

いわば、“オードリー・ヘプバーン”的な。
ギリシア神話でいうところの、月の(=るなティックな)女神。永遠の処女神であり、
鹿を連れ歩いては狩りをして森を自由に歩く、清楚なアルテミスのタイプ。

それでは、“華子的”な、現実感から、身体性からの逃亡者であるのか?
……というと、そうではないのでしょう。

自称“食いしん坊”の知世さんが“華子的”であるわけがありません。
“食いしん坊”と言っても、どうやら高級志向のグルメを気取っているようではなさそうです。
どんなにつましい献立であってもいいらしい。
ただ、その食べ物の味をきちんと味わいたい。
その土地の味を味わいたい。みんなで食事を楽しむその時間、
食事そのものを大切にしたい。……らしい。

これにはお姉さんの貴和子さんの影響もあるでしょうか。
貴和子さんのエッセイ「原石」を読むと、そのたくましい食欲ぶり、“快食”ぶりが、
何しろ気持ちよくて、ホレボレしちゃいます。
小さい頃は、2人前の食事を、
貴和子さんが1.5人前、知世さんが0.5人前にして分け合っていたというから、
もともとは知世さんも小食だったのでしょう。

しかし、「時をかける少女」で、初対面の大林監督が出した条件が
「監督よりも、いっぱい食べること」だったそうで、
知世さんは、朝昼夜の3食はもちろん、“早朝食”に“深深夜食”など1日8食をたいらげたとか。

何年か後、当時も食べたワッフルをぺろりと食べて言うには、「わたし、監督より食べる子になっちゃったかも」。(たちばな出版『大林宣彦のa movie book 尾道』)

いやあ、なっちゃったと思いますよ、知世さん。かなり(笑)。
クラシックの歌手や演奏家は、公演前、とにかく食べるそうですが、
身体(からだ)を張って表現をする女優や歌手という仕事は、
結局、最後の最後は、食べてるか食べてないかが勝負というところがあるのでしょう。

そして、知世さんが“華子”と大きく違うのは、その現実感覚でしょうか。
現実から逃げずに、現実と向き合い、右か左か、yesかnoか、
迷いながらも、とにかく一歩を踏みだしちゃおうとする生命力。
明日へのドアの取っ手にいつのまにか手をかけちゃう、軽やかさと、しなやかな強さ。

huusen-y.gif

きれいな花は、ただきれいに咲くのではないと思います。
その根っこに、朽ちた葉や、腐った草や、時にはいろんな生きものの死体がある。
それは匂ったり、おぞましかったり、グロテスクだったり。
そうしたもう一方の現実やどろどろの身体性を、根っこは抱きしめて、花は成長する。

けれど、その根っこの部分を見せない女優さんやシンガーもいますよね。
汗すら見せない。きれいな部分しか見せない。

どちらかと言えば、知世さんはそうしたタイプだと思ってましたし、
それは今も思ってます。
ですが、今回のアルバム「My Pieces」では、アーティストとして、
迷ったり、不安がったり、弱音を吐くといった根っこのところも、
今まで以上に、ちらり、見せてくれたかなという気がしています。
まったく気負うことなく、気取ることなく、ごく自然に、
そんな「格好悪さ」をも含めた自分を見つめたのかなと。

そして強欲に欲深い一ファンは、もう一歩のきっかけで知世さんはまた一皮むけるぞと、
ひそかに次回のアルバムに期待したりするのでした。


そう、「原田知世さん、まっすぐで芯のつよそうでもろそうで」、
だけど、「やっぱりつよそう」なんですよね。
失恋して泣きながら、ステーキはぱくつかないかもしれないけれど、
泣きながら、しっかり、うどんはすすってるかもしれないと思わせるところがある。

「現実感のあるくるぶし」はないかもしれないけれど、
その作り笑顔じゃない「現実感のある」笑顔に、おれは救われる気がします。



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