えーと、いわゆる、なんていうか、O3(オースリー)な日々。

原田知世さん(=O3《オースリー》)にまつわる事どもを、 ミーハーなファンが書き散らかしています。

「半分、青い。」(4)──お母さんじゃないお母さん女優

かつて昭和の時代、「お母さん女優」とうたわれた女優さんたちがいました。

京塚昌子さん(「肝っ玉母さん」などに出演。)
山岡久乃さん(「ありがとう」などに出演。)
森光子さん(「時間ですよ」などに出演。)
加藤治子さん(「だいこんの花」などに出演。)

いずれも人気TVドラマで人情味豊かな母親像を演じ、
白い割烹着が似合うような“日本のお母さん”のイメージにピッタリと
人気を博した方々です。

池内淳子さんは、芸者などの役でも活躍されましたが、
「つくし誰の子」などではよき母親を演じられ(血のつながりがなくても)、
やはり「お母さん女優」の一人に数えられるでしょう。

この方々に共通すること。
──それは、実人生では、子どもがいらっしゃらないこと。
つまり、どなたも“お母さん”ではなかったということです。

(山岡久乃さんは、お亡くなりになる2年前に、いろいろな手続きの都合で、
姪にあたられる方を養女とされたそうですが。)

雲2 

スヌーピーでおなじみ、チャールズ・M・シュルツのマンガ「ピーナッツ」で、
口うるさくわがままなルーシーは、ときどきカウンセラーになります。
くよくよ悩む友人のチャーリー・ブラウンにも、基本料金5セントで相談にのってあげる。
その時、経験もしてないことをテキパキと断じるその強引な独断と偏見ぶりに、
チャーリー・ブラウンが、
まるで「結婚をしていない結婚カウンセラー」のようだと嘆く場面がありました。

「結婚をしていない結婚カウンセラー」。
「お母さんではないお母さん女優」。
──しかし、たとえ経験をしていなくても、いい仕事をするということがあります。

雲1 

たとえば落語家の五代目柳家小さん師は、酒を飲み始めたのは30歳を過ぎてからで、
それほどの酒呑みではなかったそうです。
その弟子であり孫である柳家花緑師は、ほんのちょこっとビールをたしなむ程度。
しかし、両人ともに噺の中の呑みっぷりがすばらしい。
これは一門の伝統でしょうか。
そもそも、夏目漱石にも絶賛された明治時代の三代目柳家小さん師は、まったくの下戸でした。
そのくせ、酒呑みや酔っぱらいが登場する噺が大得意だったといいます。
というのも、酒呑みの弟子や友人を招いて酒を飲ませ、その酔いっぷりを観察したそうです。

酔っぱらった当人は、意識をなくしてしまえば、忘れてしまう。
しかしそんな酔っぱらった人の隣りでつぶさに観察し、その心持ちを想像して察し、
たとえば、ほんの一滴たりとも粗末にしないといった酒好きの心情をとらえて演じたりする。
たとえ経験がなくても、真に迫る酔っぱらいを演じることができるというわけです。

五代目小さん師の高座では、
ほろ酔いから、心地いい酔い加減、悪酔い、ベロンベロンの出来上がった状態まで演じ分け、
さすがに巧いもんだなあと感心したことを覚えています。

雲・輪 

漫画家・秋風羽織(豊川悦司)は、「想像力」と言っていましたね。

「経験があるから描ける。…ないから描けない。
自分の境遇は描ける。…そうじゃないものは描けない。」
──そんなことを言ってたら「描くものは狭ま」ってしまう。

まさしくそういうものなのでしょう。
たとえ殺人という犯罪が未経験な役者でも、
妻のデズデモーナを殺害するオセロの心情とリアルを演じることが出来る理屈です。
そもそも男性であり、しかも中年である秋風羽織が、
くらもちふさこさん描くところの少女世界を描いているわけです。
中年男性が想像で描き上げた少女の心象風景は、キラキラとみずみずしく、
鈴愛(永野芽郁)の少女ごころをふるわせ、彼女の世界の扉を開けることとなった。

ところがです。
そんなふうに「想像の翼さえあれば何でも描ける」と声高に叫んでいた秋風が、実は、
火事のリアルを体感するために、自分の家(のたぶん一部)に火をつけたというのです。

まるでブッチャー──いえ、本名・龍之介君のそのネーミングの本家本元である
芥川龍之介が描いた「地獄変」の世界ですね。

その「地獄変」。
作品がすべて──芸術至上主義ともいえる天才絵師は、
実際に見たものしか描けないとこだわっていました。
彼は、パトロンである権力者から、地獄絵図の屏風の依頼を受けます。
その中に、燃える牛車の中で高貴な女性が焼かれるというモチーフがある。
それを描くため、リアルさを追求するため、
牛車を実際に燃やしてくれるよう、パトロンに頼み込みます。
するとパトロンは快諾し、いよいよ牛車に火がつけられる運びとなります。

と、あろうことか、牛車に閉じ込められていたのは、絵師の愛するひとり娘。
娘にフラれたのに腹をたてたパトロンが仕組んだのでした。

娘を救おうと駆け寄る絵師。
ところが火がつけられると彼は足を止め、魅入られるように業火を見つめます。
驚愕と恐怖を刻んでいたその顔には、いつしか恍惚とした笑みが浮かんでいる。

女性が燃え盛る火の中で悶え苦しみ死んでいく、凄まじくも美しいその絵は完成し、
しかしその後、絵師は自殺を選んで世を去ります。

もちろん、この絵師(名前を良秀といいます)と秋風羽織は違います。
住む世界も倫理観も違えば、扱うテーマも大きく異なります。
が、たぶん、命を削ってマンガ原稿を仕上げようとし、
そのためにはどんなことも厭わないという制作姿勢は共通するところでしょう。
そしてひょっとしたら、秋風が愛した今は亡き3匹の犬とうさぎたちを、
マンガを描きあげるために犠牲にしなければならないというシチュエーションが
もしも仮にあったとしたなら、
彼は、絵師と同じ選択をしたかもしれないと思ったりもします。

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おそらくは、秋風羽織はブレていないのでしょう。
想像の翼と、リアルな体験と、その両方がマンガには求められる。
いえ、芸術だとか、エンターテインメントだとかいうやつは、
すべて、そういうものではないでしょうか。

芥川龍之介「地獄変」の元ネタである「宇治拾遺物語」が成立した同じ鎌倉時代に、
「九相図」という仏教絵画が描かれました。
道端に転がった死体が腐敗し、朽ちていく様子を、9段階にして描いたもの。
膨張し、皮破れ、血液や体液がしみ出し、虫がわき、獣に荒らされ、骨になり……
という過程が、克明に描かれています。
当時は墓に納められることなく、野ざらしで放置された死体も多かったといいますから、
おそらくは実際の死体を取材スケッチして描いたものでしょう。
リアルです。
そのリアルさは、「地獄絵」や「六道絵」などにも影響したと思われます。

一方、「地獄絵」には、閻魔大王をはじめ、獄卒の鬼たち、
目玉が64個あるというものや、牛や馬の顔をした牛頭(ごず)馬頭(めず)、
さらには、火を吹く巨大鶏、金剛石の嘴(くちばし)をもった虫、鉄でできた大蛇などなど、
「往生要集」などに基づく異形のものたちも数多く登場します。
これら荒唐無稽な存在たちは、たいていの「地獄絵」に出演しているものです。
もしも絵師・良秀のように「現実に見たもの以外は描けません」などと言っていたら、
この種の「地獄絵」を依頼されたとすると、彼はクビにならざるを得ないでしょう。
彼の「描くものは狭ま」っているからです。

実際にはたとえば、そこらの庭先を歩いている現実の鶏を克明に描き、
そこに、「想像の翼」を肉付けしていって、火を吹いて暴れる巨大な鶏の怪物を描くからこそ、
観る者の心に訴える絵が出来上がるのでしょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチが天使を描いたとき、
その背中に現実の鳥のような翼を描き込みました。
それまでの既成の絵の天使の翼といえば、ゴージャスだけれどいかにも架空なものでした。
それをダ・ヴィンチは、実際の鳥を観察し、
どうしたら飛行できるかという構造や筋肉を研究したそのリアリティでもって
天使の翼を仕上げた。
つまり、「リアルな翼」を加えることで、「想像」を確かなものにしたのです。

雲1 

落語のストーリーの95%はウソ話です。
辻斬りに遭ってまっ二つに斬られたので、上半身が風呂屋の番台で働き、
下半身が蒟蒻屋で働く(「胴斬り」)。
あくびのし方を教える商売がある(「あくび指南」)。
頭のくぼみに水がたまって池ができ、その池へ自分が飛び込み自殺をする(「頭山」)。
……などなど、現実にはあり得ないことばかり。

噺を聞く客側も、これはあり得ないウソ話だと思って聞きます。
しかし、そこに演出の工夫があり、
暮らしの中で誰もが思い当たりそうな「あるある」があり、
「人間てそういうもんだよね」と思わせるリアリティがある。
どんなに荒唐無稽なナンセンスな絵空事であっても、
そこに一片のリアリティが加わることによって、
「ひょっとしたら、こんな馬鹿げたことも、世界のどこかで起こるかもしれない」
と思わせられて、本気で物語を味わい、物語に入り込むことになります。
そして時にはクスリと、時にはゲラゲラ笑わせられ、時には涙させられることになる。

そこには、人間の愚かしさ、弱さ、ずるさが如実に語られ、
それでいて「こいつ、いい奴じゃないか、こんちくしょうめ」と思わせられたりして、
あるいは、語られる中に、夫婦や家族の情愛やら人情やらが滲(し)みだしてくる。
ウソ話の中に、演じ手である噺家のリアルがにじみ出てくるわけです。

かつて噺家は、「呑む、打つ、買う(酒、博打、女)」が奨励されました。
これら三道楽が、多くの噺の題材にされていたこともありますが、
こうした遊びが、しくじりも含めて、「芸の肥やし」──
人間としての幅を広げ、人間味を深める、世間の勉強になったからでしょう。

破天荒で知られた初代桂春団治師も、「浪花恋しぐれ」(作詞:たかたかし)で、
「芸のためなら女房も泣かす」と歌っていましたね。
この歌では、女房のお浜さん(実際の名前ではなく、春団治師には3人奥さんがいました)が、
泣くどころか「あんた遊びなはれ、酒も飲みなはれ」と、むしろ煽っていました。

五代目古今亭志ん生師も相当な破天荒ぶりで、女房のりんさんはさんざん泣かされましたが、
やはり、酒を飲むといえば、黙って酒代を工面してあげ、
吉原へ行くといえば、自分の着物を質に入れてまで花代を工面したといいます。
おかげで一家は、長い間、尋常ではない貧乏神にとりつかれることになる。
落語では、「だくだく」とか「文七元結」など、貧乏の極地を絵に描いたような噺がありますが、
貧乏ぶりでは「いい勝負だった」と、当時の一家の窮状を知る娘さんが語っています
(古今亭志ん生「びんぼう自慢」ちくま文庫)。

そのリアリティが、落語に生きていた。
同じ貧乏噺を語っても、なにしろ経験者ですから、その心持ちや描写や息づかいにリアルが宿る。
かといって、貧乏を恥ずかしがるでもなく、腐るでもなく、
ネタにしてしまえる師のキャラクターが、貧乏を味わいに変え、笑いに変えていました。

1960年代の著書「現代落語論」(三一書房)では「貧乏は芸を滅ぼす」と書いていた
当時30歳そこそこの立川談志師が、
後年になると、弟子たちに「貧乏をしろ」と奨励していたというのも、
そういうあたりに理由があるのかもしれません。

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鈴愛(永野芽郁)も、片耳が聞こえないという障害の経験者です。
だから、もしも鈴愛が将来、そうした障害をテーマにしたマンガを描くとすれば、
そのリアリティは、ひとつの武器となるでしょう。

作家の柳美里さんは、子ども時代、家庭の問題やいじめの中で居場所を失い、
中学生になったときには、家出と自殺未遂を繰り返していたといいます。
それが中学を卒業して、ミュージカル劇団「東京キッドブラザース」と出逢ったとき、
主催者の東由多加さんが言ったそうです。

「あなたが今まで体験したことは、実社会ではマイナスに作用することが多いけれど、
表現の道に進むならば、マイナスのカードが全部プラスのカードにひっくり返る。
だから、あなたは自分の苦しみや悲しみを誇りに思ったほうがいい。」

晴(松雪泰子)の説では13社の就職面接を落ちる原因となった「障害」というマイナスのカードも、
鈴愛がマンガ家となれば、プラスにひっくり返るというわけです。
「お母ちゃん、ここは自由や!」と、電話で鈴愛が叫んだ通りの、何でもありの世界。

しかし、「そういうことに甘えるな」と、秋風羽織は言います。
三道楽に明け暮れたからといって、落語がうまくなるわけではありません。
貧乏をしたからといって、名人芸を語れるものではありません。
貧乏について、障害について、ただ愚痴を並べても、それが噺や作品となるわけではありません。
経験は武器になりますが、武器とするためには、工夫と努力と表現力が必要でしょう。
主観だけではなく、自分を客観視する想像力も必要でしょう。

秋風羽織はそうして、鈴愛の障害は「いいフックになるかもな」とも言います。
読者を引きつけるためのきっかけにはなる。
しかし、そこからどんなオリジナルな世界を描いていくかというアイデアは、鈴愛次第。
これはそのまま、鈴愛と同じ障害を背負う脚本・北川悦吏子さんの、
この作品においてのスタンスと重なるのだと思われます。

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鈴愛の母親・晴を演じる松雪泰子さんは、実生活でも一児の母親だそうですね。
そのご長男は、ドラマの中で現在18歳の鈴愛と年齢も近いのだとか。
松雪さん自身は、自立心や自主性を大切にする子育てだそうで、そうした違いはあるものの、
母親の心情としては、実人生とドラマと共通する部分が、たぶん大きい。
そのリアルが、泣き虫晴さんの演技に生きている。

北川悦吏子さんのご長女も20代ではありますが、ほぼほぼ鈴愛と年齢は近く、
「空の巣症候群」のくだりの台詞(「親は、子どもに永遠の片想いやね」など)は、
実感に近いところが、もしかしたらあるのかもしれませんね。
その辺が親の世代の共感を呼ぶところでもあると思います。

一方(比較することはないのですが)、
律の母親・和子(わこ)を演じる知世さんは、実生活では母親ではありません。

いわば「結婚をしていない結婚カウンセラー」。
しかし、母親としての経験がなくても、
ひとりの子どもとして母親と接してきた経験は、誰でもあり得るわけで、
子どもの視点から見た母親像を演じるということもあるでしょう。
「お母さんではないお母さん女優」たちが、いきいきと理想的な母親像を顕現してみせたのには、
そうした理由もあるかもしれません。

が、しかし、このドラマで知世さんが演じる和子さんは、母親としての生活感がありません。
母と娘という関係性もあるかもしれませんが、晴と鈴愛の密着度に比べると、
母と息子である和子と律には、少し距離感があります。
けれどそれが、和子というキャラクターに合っているように思われます。

わが子は天才で、ノーベル賞を獲るのではないかと秘かに、けれど本気で思っていて、
東大合格は当たり前と、無邪気に信じていた。
息子を溺愛し、手放したくないのだけれど、
そのくせ、子どもは自立させ、子離れをしなくてはいけないと自分に言い聞かせている。
一歩ズレると嫌味になるところなのだけれど、おっとりした素直さと人の良さを感じさせて、
それが可愛らしさとなっていました。
まあ、それでいて、息子の見張り役に鈴愛を使うというようなしたたかさもあるのですが。

東京まで付いてきての律との別れ際、
「泣きますんで。
泣きたくないのですのです。」
の台詞のあたりは、もっと丁寧に演じてもらいたかった気もするのですが、
泣きたい気持ちと、泣きたくない気持ちの両方に揺れる母心(ごころ)と、
けれど、ちょっと心配して窓から「ありがとう」を言う律には微笑みを返して、
何だか颯爽と歩いて去って行くあたりが、いかにも和子さんらしいと思いました。

(それでいて、息子の自立はそうとうショックだったらしく、
キミカ先生のところへカウンセリングに行って薬をもらい、
ボクシング・ジムに通うというあたりも、やっぱり和子さんらしいように思います。)

「お母さんではないお母さん女優」になれる可能性も、ないわけではないかなと、
知世さんの一ファンは、ちょっと思ったりしたのでした。









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  1. 2018/05/18(金) 17:53:00|
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